詩人多田智満子が、数人の日本の詩人と共にキューバに招かれて行った折に、ハバナの図書出版協会からもらった雑誌の表紙に、フィデル・カストロの写真が大きく載っていて、
ミーハー的なカストロ・ファンである私は、その雑誌を少し熱心にめくって見た。「見た」というのは文字通りの意味であって、全然スペイン語のできない私は、「読む」わけにはいかなかったからだ。とはいってもラテン系の言語なので、ところどころわかる単語ももあり、見出しなどは大体見当がついた。見当ちがいの見当かもしれないが。「インターネットは本の死か」などと、本を作る側としてはかなり悲壮な文句も見られたが、私がちょっとにっこりしてしまったのは、大きな活字でしるされたカストロの次の言葉であった。「最後に残るのは本だ。」(略)あいにく私の語学力不足のため、どういう文脈で語られたのかよく分からないが、それだけにいろいろな解釈ができて楽しい言葉であった。(略)私などは、「本こそは究極のもの」と強引にねじ曲げて想像してみたりする。ー多田智満子「最後に残るのは本」(1999年)『最後に残るのは本』工作舎(2020年)より
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わたしは多田智満子のように、「最後に残るのは本」だとも「本こそ究極のもの」だとも思わない。最後に残るのは、結局はいのちのぬくもりであると思っている。「わたし」という「個」に注がれた愛情と想いだと考えている。
「究極」という言葉を用いるなら、究極のところ本とは(ハムレットの台詞のように)「ことば」の集積に過ぎない。
「言葉」や「知」というものに根深い不信感を抱いているわたしにとって、極論すればそういうことになる。
昔よく言われた、「哲学は人を救えるか?」という問いに対しては、わたしは常に「否」の立場である。究極的に人間存在を救い得るのは、ゼニ・カネでも、先賢先哲の「ことば」でもなく、文盲の老女の手厚い看護なのだ。
人の魂を救い得るのは他の魂以外にはないと固く信じている。
「本があるから私は孤独ではない」等という言葉(或いはそう言える人)と、わたしの孤独の闇の深さ冷たさとの懸隔は計り知れないほどに遠く、また深い・・・
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インターネット時代に入って書物という紙のメディアのアナクロニズムが語られることがときおりあるが、わたしにとって、「本」の空間はとっくのとうに廃墟化していたように思う。もちろん、廃墟とは例外なく美しいものだということを前提としたうえでのはなしだ。「本」を支配しているのは荒涼とした冬枯れの風景であり、その寥々としたさびしさに惹かれるということがなかったなら、わたしは書物の形で自分の詩をまとめてみたいなどとは絶えて思わなかったことだろう。
(下線引用者)ー松浦寿輝「この冬、この本」2000年1月、同上『最後に残るのは本』より
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本の魅力は寥寥としたさびしさであると松浦氏は言う。わたしはそれに同意するからこそ、本によって孤独な魂が癒されることはないと思うのだ。
「教養は富めるときには身の飾り、病めるときには心の避難所」というアリストテレスだかエミリー・ディキンソンだかの言葉に、あたりまえのように頷いていた若い頃と、いまのわたしは違う。
わたしの魂は、プリーモ・レーヴィやシモーヌ・ヴェイユの言葉でも癒されることはない。
わたしの魂とはわたしの身体と同一である。であるならば、わたしの実存を救い得るのは、血の通った生体(必ずしも人間に限定しない)による「無言の抱擁」以外にはないと思っている。
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