2021年9月27日

『手をめぐる四百字』より、 多田智満子

 最後の握手 多田智満子

おすわり というとすわる
前脚をお姫様のように品よくそろえて

お手 というと左足をあげる
人の手と 犬の≪手≫の 握手

(弾力のあるぼこぼこの掌は 地面と同じ温度 しかし冬でも暖いことがある まるくなって寝ていた時だ)
おかわり というと右足をあげる
もう一度 握手
これがご飯の前の儀式

きのうわたしは最後の握手をした
獣毛に覆われた全身を バスタオルでくるむ前に

その手は硬く 冷えきって
両の掌に包んでも暖めることはできなかった




「最後の握手」という悲しいタイトルの短い文章である。

こころから愛したいのちが永遠にうしなわれてしまったのち、人はどのように生きつづけることができるのだろう。
このことが常に大いなる疑問としてある。
犬がいた時の生活と、彼女をうしなってからの生活は大きく変わる筈である、
人は何故そのような(愛情が喪失した後の)変化に順応できるのか?

以前にも書いたように、毎日眺めていた一本の樹が伐り倒されただけでも、わたしの一部が失われる。

自分が愛するものに囲まれている時にのみ、「私」は「私」でいられる。
逆に愛するもの(こと)が存在しない時、わたしという存在は単なる形骸に過ぎない。

何度もいうように、わたしの生きる根拠はわたし自身の内部には無い。
愛する人や愛する犬、毎日愛でている樹々や植物が、わたしを取り巻くことによって、わたしという生命を「生かしめている」のだから。


土居健郎の『甘えの構造』は、英訳版では、" The Anatomy of Dependence " というタイトルが付けられている。「ディペンド」とは「頼る」Depend on you は「きみを頼りにする」という意味だ。わたしは『甘えの構造』を読んだことがないが、そもそも日本語の「甘える」と、英語の Depend 「頼る」とは、似ているようでまったく異なる概念のように思われるのだ。

犬を愛することが甘えだろうか?樹や花を愛でること(=愛すること)は「甘え」だろうか?
I Love You!」とは「甘え」の表明なのだろうか?

繰り返すが、わたしの存在は、わたしの外部に存在するそれらに支えられている。
「愛することによって生かされている」ということが甘えと呼び得るのだろうか?

ドストエフスキーは、「地獄とは、最早何ものをも愛することができない(愛し得ない)ことである」という。
つまり、人は愛されること(だけ)ではなく、なにものかを「愛すること」='Depending' によってはじめて生きることができるのだ。










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