2021年9月30日

絵を観ること、世界を見ること 

松浦寿輝は、エッセイ集『青の奇蹟』の中で、ニコラ・ド・スタールの絵についてこのように語っている

見ることの至福とでも言おうか、まなざしの法悦とでも言おうか。
ニコラ・ド・スタールのタブローと向かい合って幸福にならない人間がいるとは信じられない。
 (略)
彼のタブローにひととき視線を遊ばせていると、精神の奥底まで心地よく揉みほぐされてゆくような気がする。人体を知悉した整体師の指先が骨の歪みを探り当てて矯正してくれるように、ド・スタールの色と形の戯れは、わたしたちの感覚と精神の内部に潜む不均斉を正し、曲がっていたものをまっすぐにし、外れていたものを元の位置に戻してくれるような気がする。わたしたちはさわやかに覚醒し、混濁のとれた視界に瞳を見開いて、いったい、世界とはこんなに明るかったのかと改めて驚くことになる。要するにこれは、幸福な絵画なのだ。
 (略)
ほとんど暴力すれすれの荒々しい原色を大胆に駆使する彼の画面構成は、人を優しく慰撫するというよりはむしろ、あたかもこちらの体のツボをぐっと押してくるような強い力の一撃となって、文字通りわたしたちを撃つ。その一撃によってようやく視覚と精神が正常に働きだしたかのような快感を、わたしたちは享受するのである。

「眼の法悦から「見ること」の冒険へ ── ニコラ・ド・スタール」(初出1998年)
(太字・下線は引用者)


なんだか指圧やマッサージの効能と快感を滔々と述べているような気がしないでもないが、
そもそも、絵を観るということは、あるひとりの人間の精神の、感覚の、特殊性を観ることなのではないか。強いて言うならば、わたしたちは、今目の前にある、一個のにんげんの「感覚と精神の内部に潜む不均斉」をこそ享受しているのではないだろうか?わたしの好きな画家、シャイム・スーチンの絵など、これ以上ないほどにゆがみ、たわみ、ねじれ、屈折屈曲している。その歪みや撓み、捻じれが、わたしの内面のそれとピタリと重なり合うこと。そこに彼の絵を見ることの歓びが生じる。

そもそも芸術作品が正すべき、または矯正し得るという精神や感覚の歪みとはなんだろう?

腕のいい整体師に全身を揉みほぐされ、躰の歪みを矯正してもらい、翳りひとつない晴れ渡った精神を以て、わたしたちは果たして絵画の美を感受できるのだろうか?

そこに傷みがあり、苦悩があり、悲しみがあるからこそ、タブローに表出された闇(病み)に同調できるのではなかったか?心身ともに健康健全な者に、そもそも芸術の味わいが分かるとは思えないのだ。

そのとき、単なる目の悦びを越えたところで ── 偉大な画家のタブローについて必ず起るように ── この画家は、世界を、人間を、ものを、要するに世界を、これほど深く、豊かに見ているのかという驚きが、改めてわたしたちにやってくるだろう。


絵というものは「眼」で見るものではない、世界もまた同様である。 わたしたちはそれぞれの魂によって絵を、世界を感得感受しているのだ。

内面の屈託屈折なしに我々は一枚の絵の深みも、世界の美醜をも見取ることはできないだろう。絵を観る快感とは、他ならぬ、わたしたちの内部の穢れや濁り、汚れ、爛れや膿んだ古傷と、作品に叩き付けられたそれとが照応し合うという稀有な邂逅に恵まれるということに他ならない。

真の芸術とは誰(た)そか彼かの夕間暮れ、日没の寂光の裡に出逢うものである。

嘗て種村季弘はいった

「五体満足なら踊る必要はない」と。

美の女神は跛である・・・

(無論今日の「健全なる」パソコンが、跛(びっこ)なる文字に変換させるはずがない。)









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