この本(『最後に残るのは本』)には、ところどころ、面白いことが書かれている・・・などと言うと、いかに日頃本に接していないかという、問わず語りの告白のようになってしまうのだが、実際そうなのだから仕方がない。
今日は佐倉統(おさむ)という人の「読み人知らず」(初出1998年)という文章について。
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高校時代、佐倉氏は「古文の授業がつまらなくて」仕方がなかった。そのことを母にこぼすと、彼の母親は、自分が大学生だった頃の話をした。彼女が伝え聞いたところによると、
歌人・島木赤彦の万葉集の講義は、歌をひとつ詠んでは、本を閉じ、宙を仰いで、「いいですなぁ・・・」と嘆じる。その繰り返し。それだけだったというのだ。
高校生の佐倉氏は呆れるが、後に、
しかしこれ、若気の思い上がりとは、恐ろしいものである。最近そういう講義ができるっていうのは、実はものすごいことなんじゃないか、と思うようになってきた。いろんな感動があるんだから、中にはそれ以上言葉で表せないのだってあるだろう。もしそういう感動を他人に伝えようとしたら、これはもう、読んで嘆じるしかないのではないか。それが一番まっとうな表現なのではないか。
感動とは本来コミュニケーション不可能なものだ。このことはみんな知っている。だけどそれを実地に示すことは難しい。そんじょそこらの人間には、真似のできない技だ。昔ぼくが軽蔑した万葉の講義は、島木赤彦ならではの、ある種の高みに達した境地の開陳、だったに違いない。
(下線、引用者)
そして更に佐倉氏は、
これで講義が成立しているというのは、今の大学では考えられない。今なら、ぼくなら、非言語的情報を学生に伝達するために、ビデオやスライドやマンガを使う。この差は何なのか。
と拱手嘆息してしまう。
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結局わたしの「本嫌い」「読書(家)嫌い」というものは、本来語り得ぬものを無理矢理に言葉にしようとする「知識(乃至教養)偏重」に対する強い反発と抵抗ではないかと思うのだ。
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わたしがこのブログで書きたいことは、「知識」でも「情報」でもなく、言葉にならないもがきであり、絶叫、悲鳴のようなものだ。
それは極々個人的な「傷み」であって、仮にその悲鳴や呻きをなんとか言葉に置き換えることができたとしても、やはりそれを他者と「共有」することはできない。
わたしの周りに笑い声や、微笑みはほとんど存在しない。あるのは呻吟と、喉の奥で音にならず、発声されない叫び、そして言葉として結晶する前に気化してしまう深い絶望の吐息のみである。
それは一見「文章」の形を採っているように見えるかもしれないが、わたしの文章は、究極のところ、以上のような生きていく上での苦しさの表出なのだ。
「生きて行く上での苦しさ」・・・別に生きていかなければならないと思っているわけでは更々ないが・・・
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島木赤彦も、高村光太郎や吉井勇などのように、御多分に漏れず、戦争協力詩人・歌人のひとりであったろうことは容易に想像がつくことで、そのような人物の「戦後の」講義の在り方を安直に礼賛することはできないが、そのことについては今は触れずにおく。
繰り返すが、わたしがネット上の「ブログ」に、或いは「本」に最終的に求めるものは、「言葉」の背後にある、彼/彼女の心の闇(病み)であり、涙であり、心労の果ての幽かな独話以外ではないと考えている。
「最後に残るのは本」だとしても、そこに懊悩や嗟嘆の感じられない本など、単なる娯楽かひまつぶしの具に過ぎない。
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