再び工作舎『最後に残るのは本』(2020年)より。
この本は、67名の「作者」が、「本」または「読書」について千文字前後で書いたものをまとめたもので、執筆者は必ずしも「作家」や「物書き」と呼ばれる人に限らないが、いづれも、その分野で書物を著した人たちばかりである。目当てに借りた松山巌や矢川澄子、中村桂子の文章は正直期待外れだったが、先に引用した(寡聞にしてこの本で初めてその存在を知った)松浦寿輝(ひさき)という人の文章は本の掉尾を飾るにふさわしいものであった。
わたしは「引用」の多い本を偏愛している。松山巌が好きな理由の一つに、彼の著作での引用の多さ、その多様多彩さが挙げられるだろう。
今日紹介する杉浦日向子など、のっけから3分の1くらい「引用」が占めている。
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「ダーウィンなどは毫も書物を大事にしなかった。彼は重い本などは持ちやすいように半分に割ってしまい、また本を置く場所を節約するため大事なページだけをとって、あとはみんな捨て去ってしまった。いくつかの病名にその名を残している神経学の泰斗ジャクソンも似たようなことをしている。彼は友人などに必要な個所を切り抜いて送ってしまうので、その蔵書には満足な本はほとんど一冊もなかった。彼は本屋で本を買うと、その場でたちどころに表紙を引きはがし、ついでバリバリと頁を二分して、半分を一方のポケットへ、残りの半分をもう一方のポケットにねじこんだという」(北杜夫「マンボウ万華鏡」より)。こんな話、嬉しくて大好きです。ー杉浦日向子「私と本」1986年『最後に残るのは本』より
わたしもこういう話(こういう文章)大好きです。この本では、見開き二ページが「私と本」にあてられているが、上に引用した部分だけで、片側一ページが占められている。
わたしはどちらかというと、「本好き」、「読書家」という人種が嫌いである。理由はよくわからない。単に知的劣等感だけが原因ではなさそうである。しかし「知的だな」と感じる人間が苦手ということもあるので、やはり知的コンプレックスなのかもしれず、その辺は曖昧なままにしておく。
ところで、わたしは言葉が大好きである。つまり本嫌いの言葉好きである。(だから「引用」を好むのだろう)
先に本とは所詮「ことば ことば ことば」の集積であると言った。だから、わたしは本全体から一箇所でも二箇所でも「引用するに足る」言葉を見つけるとうれしくなる。
つまり本自体は、北杜夫(や杉浦氏が)述べているように、ダーウィンやジャクソン同様、引き裂こうが切り抜こうが一向に構わないのである。わたしにとって大事なのは「本」(箱)ではなく「ことば」(中に入ったいろいろなチョコレート)なのだから。
本だと切り抜いたり、不要な部分を捨て去ったりしてしまうことが大変乱暴なことのように感じられるけれど、わたしたちは新聞を読むとき同じことをしていないか?
必要な部分だけを切り取って、後はフライパンの油を拭いたり、束ねてゴミに出したり、はてはゴキブリ退治などに使っているではないか。
わたしの本嫌いの言葉好きを、実際の行為にすると上のようになるという好例ではないだろうか。
世の本好き、読書家というものが、須らく、ダーウィンやジャクソン、そしてこの文章を著した杉浦日向子のようであったら、わたしの彼ら/彼女らを見る目もまた違ってくるかもしれない。
尤も、図書館の本を切り抜いたり、汚したりすることは言語道断であるので、それだけはやめてほしい。それが新聞であろうと、雑誌であろうと同じである。切り抜くのも、ページを折るのも、汚すのも、自分の買った本で思う存分やってくれ。
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