2021年9月21日

「私の」問題意識

本を読むのは問題意識を持つからである。問題意識とは、自分を取り巻く現状に対する生理的な違和感から発することがほとんどである。ところが、現状維持派(乃至現状容認派及び無頓着派)としては、違和感や問題意識など持ってもらっては困るのである。それを象徴的に示しているのが、レイ・ブラッドベリの『華氏451』であり、オーウェルの『1984』などの所謂「ディストピア小説」である。その中では問題意識を持ち、それをさらに深く掘り下げるためにあれこれと本を読むということは「犯罪」であるとされている。
だからわたしは本を読み、考える。自分の感じている「違和感」について。この社会の座り心地の悪さについて。わたしの考えは、過激で、間違っているかもしれない。けれども、正しいとか間違っているとかは二義的なことで、自分の違和感に無関心無頓着ではないということが大事なのだと思う。それがわたしが自己に対し誠実であるということだと思うのだ。

と、ここまではなんとか納得できる人もいるだろう。けれども、わたしのブログの人気(ひとけ)のなさは「わたしの問題意識」の在り方が、他の多くの人の問題意識とほとんど重なり合うことがないことにある。だからわたしが自分の問題意識にもとづいて本を読み、それについてこのような場所で認めても、他人はそこになにも見出すことはできない。そのことを充分承知の上でわたしは読み、そして書いている・・・と、言いたいところだが、現実にはわたしの問題意識に沿うような文献自体がほとんど存在しない。

例を挙げるなら、「世界が醜いから」という審美的理由によって外に出られない者(=引きこもり)の存在、症例についての文献は結局ひとつも見つからなかった。
更には、何故日本の公共交通機関はこうもやかましいのか?
何故日本人は繰り返し繰り返し手取り足取り教えてもらわなければエスカレーターにすら乗ることができないのか?
何故真昼の太陽がかんかんと照っている時間帯に、プラットホームに昼行燈の如く無駄な照明が点けられているのか?
何故誰もが例外なくスマホを持つのか?・・・etc....

何故誰もこれらのことについて疑問を抱かないのか・・・


ポール・ヴァレリーは自身の自画像ともいえる『テスト氏』の中で、テスト氏の夫人が敬愛する牧師に、テスト氏についてこう評させている、「彼は孤立と独特の認識の化け物なのです・・・」と。

わたしは自分のブログにこの言葉を名刺代わりに掲げていた。
けれどもよくよく考えれば、「独特の認識」をする者、即ち「異質の者」が孤立するのも、また彼が、その独自の世界の見方・感じ方によって「化け物」と呼ばれることも、まったく当たり前のことではないかと今では思うようになっている。

サルトルは「他者とは地獄である」と言っている。それも事実ではあるけれど、同時にこの国、この社会の多くのひとたちにとっては「他者とは化け物である」と言えるのではないだろうか。
何故なら彼/彼女は、自分たちの考えるようには考えず、自分たちと同じように振る舞わず、自分たちが感じているようには感じていないからである。








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