2021年9月23日

納豆と世界

わたしには好きな言葉がいくつもある。「座右の銘は?」などと訊かれれば口籠ってしまうが、「好きなことば」がある。(それは「趣味は?」と訊かれて答えることが出来ず、「好きなモノ・好きなコト」なら挙げられるという心理に似ている)

その一つが、(これまでも屡々引用しているが、)アナイス・ニンの次のような言葉である。

” We don't see the world as it is, We see the world as we are. ”

「私たちは世界をそのあるがままには見てはいない。私たちは世界を私たちがあるように見ている」

わたしはこの言葉をあるアメリカ映画で知った。(邦題『キッシング・ジェシカ』というマイナーな映画である)

成程世界はわたしたちとは無関係に、わたしたちの周囲に厳然として存在している。
しかしその客観的な世界を、わたしたちが感知することはできない。

卑近な例をあげるなら、「納豆」が美味いかマズいかに客観的な基準は存在しない。
納豆を美味いという人には納豆はおいしいのであり、納豆は嫌いという人にとって、納豆の美味さは存在しないということと同じである。
言い換えれば、納豆が美味いかマズいかはまったく個人個人の味覚に因る。「納豆」「くさやの干物」、「ラッキョウ」の美味しさを分からないなんて悲しいじゃないの・・・と言われても、わからないものはわからないのである。

つまりわたしたちは世界や社会の在り方を、その美醜を、納豆が美味いかマズいかというのとまったく同じレベルで認識している。納豆がマズく、世界は醜いと感じている者に、「本当は」納豆はおいしく、世界は確かにうつくしいのだと説かれても、それは通じない。


けれども、アナイスは、人間を固定したものであるとは言ってはいない。彼女は「私は世界を、(いま現在)私があるように見ている」と言っているのだ。

いうまでもなく人間の気持ち、気分は変わる。「ころころ変わるからココロってなもんだ!」(これは森繁の喜劇で覚えたセリフ)

20代までわたしはジャズをまったく受けつけなかった。理屈ではなく、どのジャズのレコードを聴いても、1分もしないうちに頭が痛くなるのだ。
ところがある日、新聞を読むことさえ気怠い午後のまどろみの中で、ビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ』とコルトレーンの『バラード』のLPを何気なしにかけていると、なんの抵抗もなくすんなり、心地よく音楽が耳に入ってくるのだ。以来数年間、聴く音楽はジャズオンリーになった。
渋谷、神保町、新宿の中古レコード店に足繁く通い、ジャズのレコードやCDを漁った。

嫌いだったものがある日を境に、ある出来事をきっかけに突然好きになることは別に不思議じゃない。

しかしそれとても、アナイスの法則から外れてはいない。

いづれにしても、納豆の美味さやジャズの心地よさというものが、わたしから離れて存在しているわけではない。世界はわたしたちの生理と五感によって感知認識される。それをわたしたちは「センス」(’Five senses’のセンスと同義である)と呼び「美意識」と呼ぶ。

わたしという個人(=個体)の感受性と美意識を離れたところに、「本当の」世界も、納豆も、ジャズもありはしない。

蛇足を付け加えるなら、わたしは納豆好きである。豆腐屋でありながら豆腐はあまり・・・








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