2021年9月18日

乱れる(文章、エチュード2)

T 1955-23a, Hans Hartung. French/German, (1904 - 1989)


T 1988-R47, 1988, Hans Hartung. French/German, (1904 - 1989)


L 97. 1963 , 1963, Hans Hartung. French/German, (1904 - 1989)


今回新たにアイコンに採用したハンス・ハルトゥング(?)の抽象表現主義の作品は、明らかに今のわたしの精神状態を表わしていると言えないだろうか・・・

これらの絵を(三枚目はリトグラフだが・・・)みてすぐに思い出したのは、デヴィッド’チム’シーモアの撮った少女。(1948年)。強制収容所から解放され、保護された施設で、「あなたの家を描いてみて」と言われて描いたのがこの「絵」だ。
(「家」といっても、「あなたの’ホーム’を描いてみて」と言われたので、建物としての「ハウス」ではなく、寧ろ、「家庭」「ファミリー」「生活」といった広い意味を指すのだろう。これは爆撃に遭った家ではない・・・)

今のわたしの頭、そして胸の中もこれに近い。「混乱」「惑乱」「錯乱」そして「混沌」「崩壊の予感」「喪失」「悲しみ」「苦痛」「不安」「恐怖」「制御不能」「寄る辺のなさ」「絶対的孤立」「無援」「言語化不能」「説明不能」・・・


A girl who grew up in a concentration camp draws a picture of home while living in a residence for disturbed children, 1948



けれども何故か、ハルトゥングの作品を観ていると、波立つ心が次第に凪いでくるのが感じられる。ユダヤ人の少女の描いた絵にも、ハルトゥングの絵にも、強烈なパッション(「情熱」という言葉ではいま一つしっくりこない・・・)が漲っている。その強烈さ、こう言ってよければ、その力強い「狂気」が、わたしの惑乱錯乱とピッタリと重なり合うことによって、ある種の鎮静作用が齎(もたら)されるのではないだろうか。

「混沌」に目鼻耳口の(七竅ーしちきょう)= 七つの穴を穿つことによって、混沌は死んだ。けれども、混沌をカオスの状態のまま、カンバズに叩き付けることによって、作者自身を含め、それを観る者の内面の混乱が鎮まるということがあるのではないか。
このような「表現(乃至「表出」)」も、ある意味で「非言語的言語化」と呼べるのではないだろうか。

内なる混沌を「言葉」にする=「七竅を穿つ」ことも言語化なら、己の外部の鏡に、内面のカオスをそのまま写し出すこともまた、言語化と同様の作用があるのだろう。

(未完)










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