2021年9月19日

反・書物

(日記、書簡を含めた)「本」に比べ、「ブログ」が不細工だなと思うのは、本とは正反対に、一番最後に書かれたものが冒頭にくるという点である。つまり時系列に逆行しているところにあると思うのだ。「ブログは「ライブ」なのだ」という反論も成り立つのかもしれないが、わたしにとっては便利なようで、実際不便且不親切なメディアである。

わたしにとってブログとは、その時々に感じ、考えたことの記録であるとしても、ある感情、ある思想は、唐突に頭の中に出現するわけではなく、なにかを契機に少しづつ理路を辿りながら、今現在の思想なり感情に辿り着いているはずだ。本を読むということは、その生成の過程を追体験することが可能だが、ブログではそれができない。
ひとつの考え方、感じ方も、ある人物の内面で有為転変を経たのちにいまの地点に立っている。それはまったく他の生物たちと同じで、成長の過程を経て現在の形態がある。

日々書き、試行錯誤することによって、少しづつ思想が生成・形成されていく場合、そういう人物の書いた文章を、「ブログ」というメディアで読むことは非常に不便である。
ブログは弁証法的な思考法に反していると言えるだろう。
自分の中にAという考えが浮かび、それに対し、いやいや、BやCという見方もできるという発想が生じ、あれこれと思索を続けていくうちに、今現在の(暫定的な結論)に至っている。その道筋、軌跡を、著者の後について歩んでゆくことが容易ではない。

まあ確かに『コロンボ』的な味わい方もできるかもしれない。
『刑事コロンボ』は、今更説明するまでもなく、冒頭に緻密な計画に基づいた殺人事件がある。視聴者はそのトリックを知っている。そしてコロンボがどのようにその殺人に使われたトリックを解き明かしてゆくのかを見守っている。それがこのドラマの醍醐味である。
けれども、コロンボは勿論、視聴者も最後まで知らされないことがある。それは5W1H
のひとつ「Why 」(何故?)である。

視聴者が知っているのは When (いつ)Where(どこで)Who(誰が)What(何を)How(どうしたか)だけである。

コロンボにしてからが、殺人を犯した者の動機、その葛藤逡巡から実行に至るまでの心の流れは最後まで明かされない。

ウェブ上の「日記」ともいえる文章に於いて、そこに記されている矛盾や齟齬も含めて、成長・生成の「過程」を尻目に、書き手のいま現在(の状態・心境)から読み始めなければならないというブログは、やはりどう考えても文学的ではなく、いわば「反・書物」といっても差し支えないのではないだろうか。









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