改めて繰り返すのも憚られるが、「健康」というものは単独で存在するものではなく、ある個人と、その主体を取り巻く環境との融和に他ならないと考えている。「精神」(の健康)に関して言えば、肉体の健康にも遥かに増して個体と外界との関係性に大きく左右される。
その環境というのは、広くいえばその時々の社会の状態・状況であり、世界の情勢・趨勢であり、小状況であれば、家庭環境、或いは自分の属している(学校や企業その他の)組織内の環境であり、更には「私」の身体・精神状態に直接影響を与える住環境であったりと、さまざまである。
「生」「いのち」という概念も全く同じで、実体を伴わない抽象的な「生」「いのち」などというものは現実には世界中どこにも存在しない。
自死を考えている者に「生きたいか?」と尋ねた時に、「否」の答えが返ってきたとしても、現実にはほとんど例外なく「イエスでもありノー」でもあるのだ。人間を含む生物には盲目的な生への意志が潜んでいる。それは個々人の思惑を超えて、生命体としてそうなのだ。
しかし同時に「私という個人」は、もうこの「生」の「在り様」に疲れ果てている。
生命自体をなげ出したいわけではない。己の生をこのようにあらしめている「環境・状況」から逃れたいのだ。
わたし自身、いつでも、「楽に死ねるものなら・・・」と考えているが、仮に現在わたしを取り巻いている状況が一変するならば「生きたい」と思うだろう。
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「治癒」するということは、苦痛が取り除かれることである。けれども、自分と外の世界との友好的な関係の構築を抜きにして、どのように(精神的な)苦痛が軽減・消滅するだろう。
われわれは自分の意思と無関係に、周囲の環境によって、「いまのわたしのように」「あらしめられている」。それが、カミュのいう「人間は不条理と双子として生まれてくる」という言葉の真意ではないだろうか。
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「治癒」とはある意味で、その人間の「社会的な状態」を言う。
「いま目の前に厳としてある社会」と融和することが即ち「治癒」と言えるだろう。
ある者は、(社会生活を送れない)「病気」(病人)「障害」(障害者)を「規格外」であると述べている。
これはヒトという自然界のなかのひとつの生き物が、病まず、疲れず、斃れず、ということを前提とした ── 即ち「生体」と「製品」とを同一視するという ── 極めて幼稚且俗悪な思想だ。しかし現実に現在この国には、このような根本から誤った考えが充満している。
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残念なことだが、この国で、現在「治癒する」ということは、この陋劣醜悪な社会と手を結ぶことを意味するのではないだろうか。
「治癒」が言葉の本来の意味での「健康」ではなく、逆に「個」としての尊厳を放棄し、皆と同じ「規格品」になること、武骨で頑丈な、'Another Brick in The Wall ' 化すること・・・わたしたちの社会では、そのような悲しむべき逆説が成立する。
ではもう全く救いも希望も存在しないのか?と問われれば、「規格外品同士の連帯」という途以外には無いのではなかろうか。
「目指せ社会復帰」と言っている者は、自らを規格品とすることを「治癒」であり「健康」であると信じているようである。
それは生き易い途かもしれないが、その代償として、「私が私以外の何者のでもないということ」「私は私であるということ」という「健康」「治癒」という概念の基盤となる根本思想でもあり、我々人間一人一人の持つ、人としての尊厳の放棄に他ならないのではないだろうか・・・
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