2021年9月28日

再び、書くということ

 先のブログの最後の投稿が8月28日。今日で「ぼく自身 或いは困難な存在」の更新がストップしてちょうどひと月になる。ある読者から逃れるようにこちらにやって来て、これまでに二十数回の投稿をしたが、まったく反応がないので正直へたばっている。
もともと、「読者の数と文章の質とは反比例する」という自負を持ってはいるが、そのように傲然と構えていられたのも、これまでは曲がりなりにも、それが自分自身にとってだけであっても、それなりに納得のいく文章が書けていたからだ。
それがいまは書けない。
(なんだかこのブログに移って来てから、書くことと言えば「書けない書けない」というボヤキばかりのような気がしないでもないが・・・)

では具体的には反応のあるなしは何が規準なのかといえば、単にPV(ページヴュー)の数字だけではなく、わたしの文章、わたしの考えに対する意見が聞きたいのだ。
「山高きが故に貴からず 樹あるを以て貴しとなす」という俚諺に倣えば、PVの折れ線グラフが急勾配で上昇することよりも、ポツポツと、雨垂れのようであっても、読んでくれた人の声が聴こえた方が遥かにうれしいのだ。

コメントをしなくても黙って共感してくれている人だっているかもしれないという言葉を聞く。確かにそういうことも言えるかもしれないが、ことわたしに関して言えば、声が聴こえないということは、存在しないことと同じに思えるのだ。けれどもそれは所詮無い物ねだりというものなのだろうか?
つまりわたしには到底コメントを貰えるような文章を書くことはできないということなのだろうか。

どちらにしても今は自分のブログが、書いている当人にしか見えていないのではないかと不安に駆られるくらい、このブログは深い森の中のように静まり返っていて、他者の気配がまるでない。そのことがわたしの気分を更に昏く沈み込ませ、その結果、自分だけでも納得のいく文章さえ書くことができないという悪循環に陥っている気がするのだ。

大勢の読者に支持されることは端から求めていない ── そもそもわたしの書く文章でそのようなことを求めようがない ── 閲覧数の多寡がそのまま文章のクオリティーを反映しているとも思わない。それにしてもわたしはこの静寂の中で独り書くことを学ばなければならない。それを学ぶことができないということは、「最早書くことはできない」ということをただちに意味するからだ。

孤立無援の中で、自分が納得できる文章を書く。それはこれまでもやってきたことじゃないか。
やむを得ぬ事情によって場所を移ったとはいえ、先のブログとこのブログがいまだに連続しているということは言うまでもない。無論、以前書けていたということは、何ら「今も書ける」ということの保証にはならないが、時々後ろを振り返り、自分の足跡を辿ってみることも、少しは慰めには成るだろう・・・

◇◆◇


主なる神よ!願わくは聖寵あって、私がせめて人間の最下等の者ではなく、
     私の軽蔑する人々よりも劣れる者ではないと、
     私自らに証明する、佳き数行の詩句をして、この手に成らしめよ。

     ーシャルル・ボードレール







4 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    私は Takeo さんの新しいブログを毎朝読んでいますよ.

    以前と比べて, 肩の力が抜けたというか, Takeo さん自身が文章を書くことを楽しんでいるような気がします.

    ただ, Takeo さんが提起した「治癒」と「精神病院」に関する問い掛けは今も私の中にありますね.

    > 「治癒」するということは、苦痛が取り除かれることである。けれども、自分と外の世界との友好的な関係の構築を抜きにして、どのように(精神的な)苦痛が軽減・消滅するだろう。

    > 数週間、或いは数か月間病棟にいて、精神科医と呼ばれる人に「良くなった」「回復した」──そもそも「良くなる」とか「回復」という言葉の意味もまるで分からないのだが ── との判断が下され、「入院」が解かれ「退院」する。
    > では「退院」したわたしはいったいどこへ行くのか?

    「治癒」を望んでいる私がいつまで経っても鬱病の苦痛から解放されないのは, 私の病状が回復したとしても, その後に外の世界との良好な関係が築けないからだという気がします.

    精神病院への入院の意味は, 実際に入院生活を送って少しわかったことがあります.
    それは入院して社会から隔絶されるということによって, 自分だけでの回復が可能になるということです. 外の世界とのコミュニケーションを考える必要がありません.

    空気の良い高地のサナトリウムに喩えてもいいかと思います. そこにいる限り, 自分一人だけで回復していけるのです.
    自分を脅かす外の世界がありませんから.

    けれどもやはり, 退院するとなった場合に「何処」に行くのかという問題がどうしても発生してしまいます.

    いずれも「外の世界」との関係性の問題になりますね.
    引き続き考えていくことになると思います.

    秋らしい日が続いていますが, 朝晩は寒さを感じるようになってきました.
    くれぐれも体調など崩されませんよう, 祈っております.

    底彦

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    1. こんばんは、底彦さん。

      早速メッセージを頂けたことに感謝します。

      >以前と比べて, 肩の力が抜けたというか, Takeo さん自身が文章を書くことを楽しんでいるような気がします.

      ははは、そうですか?自分では相も変わらずひたすら硬いだけという気がするのですが(苦笑)
      コメントではこういう風に、自分では思ってもみなかった読まれ方がされているということがわかります。
      「テキストの複数性」などと大仰に言うまでもなく、改めて、読まれ方は人それぞれであることを感じます。



      >「治癒」を望んでいる私がいつまで経っても鬱病の苦痛から解放されないのは, 私の病状が回復したとしても, その後に外の世界との良好な関係が築けないからだという気がします.

      とはいえ、それは底彦さんのせいではありません。わたしほど極端ではないにせよ、底彦さんには底彦さんの、社会(特に日本的な社会風土)とは相容れない、強い「独自性」「個別性」があるので、どうしても、既成の社会の枠に収まり切れず、はみ出してしまう部分が広くなってしまうのでしょう。

      これまでのやり取りを通じて、底彦さんは、たとえそれが、自己の苦しみの淵源であるにせよ、その部分こそが「私」である、という考えを持たれていると感じています。それはまったくの誤解でしょうか?

      わたしに関して言えば、「普通の人のように成れるものなら・・・」という気持ちはありません。これがわたしなのだ、と胸を張れるものは何一つありませんが、大事なことは、これというもののあるなしではなく、単純に、純粋に「私は私以外の何者でもない」「私が私である」ということ。それ自体なのだと思っています。



      >精神病院への入院の意味は, 実際に入院生活を送って少しわかったことがあります.
      それは入院して社会から隔絶されるということによって, 自分だけでの回復が可能になるということです. 外の世界とのコミュニケーションを考える必要がありません.

      しかしそのお話はどうやらわたしには当てはまりそうにありません。何故ならわたしは他の入院患者や、そこで働く人たちとの信頼関係を築くことができないであろうと思うからです。


      世の中よ 路こそなけれ想ひ入る
      山の奥にも鹿の啼くなる

      嘆き詫び 世を背くべき方知らず
      吉野の奥も住み憂しといへり

      下の首は以前にも書いた実朝の歌ですが、(相変わらずの検索嫌いなもので、上に書いた歌の作者は記憶していません。また共に仮名遣いなど我流で書きました)

      わたしに関して言えば、コミュニケーションの問題は、他者との不協和音は、軽井沢のサナトリウムであってもついてまわるのです。



      最後に、松浦寿輝がボードレールについて書いた文章を引用します。

      「わたしにとってボードレールは完全な詩人だ。それは決して満たされぬ者であり、癒されえぬ者であり、癒され得ぬことにおいて徹底的な詩人であったということに他ならない。彼の憂鬱、彼の全ての苦悩はすべてこの徹底性から来る。」

      「人生を美しく」がボードレールのモラルなのであり、どんな病毒や貧苦や幻滅に見舞われようと、彼はこのモラルを手放すことはない」

      「徹底的な詩人 ー ボードレール」『青の奇蹟』(2006年)より

      わたしは常々「愛されざる者」「人外(にんがい)であること」を自認し自称してきましたが、同時にまた、「癒され得ぬ者」でもあったのだと今は思います。



      底彦さんの言われるように、少し肩の力を抜いて書くことができればと願います。

      気温の変化が目まぐるしく、体調も優れませんが、底彦さんもどうかご自愛の上、良い十月をむかえられますように。

      武雄



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    2. こんにちは, Takeo さん.

      気が付いたのですが, このブログでのお名前は poboh さんなのですね.

      「治癒」に関しての Takeo さんの言葉は本質に関わるものでした.

      > これまでのやり取りを通じて、底彦さんは、たとえそれが、自己の苦しみの淵源であるにせよ、その部分こそが「私」である、という考えを持たれていると感じています。それはまったくの誤解でしょうか?

      はい. 外の世界とどうしても歯車が合わないのは, 私の性格や気質によるものです. 以前の私はそれを無理矢理に社会の側に合わせようとしましたが, 鬱病が悪化しただけでした. 自分はどうあってもこういう人間なのだと思い始めています.

      だとすると, これまで「治癒」にこだわってきた自分は何なのかとなりますが, どうしようもありません.

      > わたしに関して言えば、「普通の人のように成れるものなら・・・」という気持ちはありません。これがわたしなのだ、と胸を張れるものは何一つありませんが、大事なことは、これというもののあるなしではなく、単純に、純粋に「私は私以外の何者でもない」「私が私である」ということ。それ自体なのだと思っています。

      それでいいのではないでしょうか. 「私が私である」という確信を持てるのは Takeo さんの強さだと思います.
      「普通の人のように成れるものなら・・・」という気持ちが無いという態度をとれることにも憧憬の念を持ちます.
      私はまだそこまで強い思いを抱くことができていません.

      > >精神病院への入院の意味は, 実際に入院生活を送って少しわかったことがあります.
      > それは入院して社会から隔絶されるということによって, 自分だけでの回復が可能になるということです. 外の世界とのコミュニケーションを考える必要がありません.
      >
      > しかしそのお話はどうやらわたしには当てはまりそうにありません。何故ならわたしは他の入院患者や、そこで働く人たちとの信頼関係を築くことができないであろうと思うからです。

      私が入院したときには, 完全に心が折れた状態で何よりも疲れ切っていました.
      ベッドで寝込むことしかできなかったのです.
      そしてそのことで私の心は癒えていきました.

      しかし入院している全員がそうとは限りませんね.
      これは Takeo さんのことを言っているのではないことをわかってほしいのですが, 患者同士の, 或いは職員と患者の衝突も時折ありました.

      > わたしは常々「愛されざる者」「人外(にんがい)であること」を自認し自称してきましたが、同時にまた、「癒され得ぬ者」でもあったのだと今は思います。

      それでも, Takeo さんのブログや, 「Clock Without Hands.」に投稿された作品からは Takeo さんの他者に対する慈しみや温かさを感じます.
      どうか, 少なくとも Takeo さんの精神は孤独ではないし孤立もしていないことは知ってほしいと思います.

      体調が優れないとのことですが, 少しでも穏やかな時間を持てますように祈っております.

      底彦

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    3. こんばんは、底彦さん。

      再度の返信をありがとうございます。

      わたしがブロガーでブログを始めたのは2010年です。それまで参加していた、当時世界最大規模のSNSであったMySpaceが、フェイスブックの台頭により、自らFBを真似ようとして大幅なモデルチェンジを行い、結果、まったくフェイスブックとは異なるSNSであったMySpaceの独自性を失い。利用者の離反を招きました。わたしも、わたしの友だちも誰もいなくなりました。
      そして始めたのが[Clock Without Hands]です。

      MySpaceでのわたしのハンドルネーム(?)はPOでした。それはこのPoboh(ぽ坊)を短くしたものです。(笑)何故ぼ坊なのかという話をすると長くなるので端折りますが、以前わたしの親友だった女性が、わたしの名前をたけおではなくたけぽと呼んだところから、最後のぽが独立して、ぽ坊になりました。(笑)
      彼女が普段わたしを何と呼んでいたかは伏せますが(笑)とにかく「たけお」ー「たけぽ」-「ぽ」-「ぽ坊」という感じです(笑)。MySpaceでも後半にはTakeoにしていましたが、このPobohというニックネームには愛着があって、Tumblrでは一貫してpobohの名でやっています。もっとも、親しい人たちはやはりTakeoと呼んでくれますが。

      なんだか前置きが長くなってしまいました。



      底彦さんにとっての「治癒」の問題は、軽々しく語れる問題ではありません。「私が私である」が故の苦しみを今現在も底彦さんは背負っておられます。わたしが言えるのは、仮に底彦さんが、「わたしがわたしであることでこんなに苦しむのなら、わたしはわたしなんかじゃなくていい!」と考えられても、それはある意味当然のこととして受け止めるだろう、ということだけです。
      「私は私以外の何者かであってはならない」といった主義や信念を持っているわけではなく、単に生理のレベルで、「みなと同じ」ということに強い抵抗があるのです。無論「主義・信条」の面に於いて、「アンチ・ファシズム」=「反・全体主義」であることはいうまでもありませんが。



      あちら立てればこちらが立たず、という感じです。
      わたしは器用ではないので、本気で文章を書くことに集中していると、どうしても、アートの投稿が手薄になってしまいます。逆もまた同じです。アートの渉猟に夢中になっていると、とても集中した文章は書けません。この完全主義もまたわたしなのですね(苦笑)

      >どうか, 少なくとも Takeo さんの精神は孤独ではないし孤立もしていないことは知ってほしいと思います.

      親切な言葉をありがとうございます。そしていつもわたしの双方のブログに関心を寄せていただき、ありがとうございます。どうしても、「以前」と比べて、焦りの気持ちがありますが、それは却って投稿を窮屈にし、見てくださる人も肩が凝るでしょうから、今現在できる範囲で、愉しみながら(で、いいのかな?)投稿を続けられればと願います。

      今日から10月ですね。どうか底彦さんも心穏やかな秋の日々を送ることができますように。

      乱文にて、

      Takeo/poboh

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