2021年10月24日

感受性の地獄。底彦さんへの返信に「仮託」して

10月5日の投稿「地獄とは・・・」の中でわたしはこう記した

 「鋭敏すぎる美意識や感受性は、それを持つ者にとって、ある意味で「不治の病」であり、それは彼自身にとって「地獄」でもある。」

頂いたコメントの中で底彦さんは次のように書いてくれた
「しかし, その鋭敏さは美や真理に向かうときにその大きな力を発揮すると思うのです.私は「Clock Without Hands.」から日々の力を得ています. 背中を押してもらうように感じるときもあるのですよ.
そこにあるのは, Takeo さんが自らの美意識に基いて選んだ作品の集まりです.
Takeo さんがそれらの作品を見つけ, 選ぶときに感じているであろう精神的な高揚感を救いとすることはできませんか?
Takeo さんが「わたし」であることの地獄を, Takeo さん自身の美意識で見出だした作品群で癒すことはできませんか ?」

そのときわたしは底彦さんのコメントに対し、「本心」を、「本音」を書くことができなかった。

この投稿は、その書けなかった想いを、今更ながら心の裡で整理するつもりで書く。そして底彦さんへの、遅蒔きながらの「真実の返信」として。


底彦さんはわたしの「アートブログ」に励まされていると言ってくれた。けれどもわたしの本領は、「美を見出すこと」ではなく、「醜さ」に対する尋常ならざる鋭敏さと醜悪なものを憎む魂であると感じている。
ここで重要なのは、「美を見出すまなざしと、醜(しこ)に過敏な美意識乃至感受性は「非対称」である」ということだ。

仮にある者が、美にも醜にも鋭敏であるなら、それはその人間の存在の裡で相殺されはしないかと考えうる。或いはひとつの美の持つ力は、十の醜さを凌駕しうるのではないかという発想も決して突飛ではない。
けれども、わたしに関しては、その理屈は当てはまらない。
即ち、十のうつくしさは、ただひとつの醜悪さに手もなく覆滅せられるような感性・美意識を、わたしは具えている・・・

重い鬱病に苦しんでいる底彦さんにとって、わたしの美への感受性が、あるいはあえかな力になっているかもしれないが、以上述べたような理由から、残念なことにわたし自身は底彦さんほど、美に励まされるということがない。

わたしにとってこの世界は穢土であり、汚わいの海に他ならない。

この国のいったいどこに、どのようなうつくしさが、「美」が、息づいているのか?


「美」に対する感性と、「醜さ」に対する感受性は「非対称」であると言った。
「繊細さ」「センシティビティー」について語られるとき、醜さに鋭敏な魂は、ひとしくうつくしさにも敏感なはずだ、という考えが主流であるとすれば、それは多分に楽観的且図式的に思われる・・・私見を言うなら、それは決して「正確」でも「正当」でもない。

わたしがこの世界に視る人の世の醜さと釣り合うほどの美を、わたしは決して見出すことはできない。


「誰かが泣き止めば他の何処かで誰かが泣きだす。故に世界の涙の総量は常に変わることはない」とベケットは書く。

けれども世界の涙の総量が不変であるとすれば、誰かが泣き止み、誰かが泣きだすといった形ではなく、「泣き続ける者」が永遠に泣き続け「笑う者は永遠に笑って(嗤って)いるから」だ。

わたしの外側に広がる世界の醜悪さの総量は、増えこそすれ、決してなにがしかの「美」によって相殺、或いは減殺させられることはないだろう。

そもそもわたしはこの世に未だ「美」と呼ばれるものが存在しているかどうかすら、訝しんでいるのだから・・・


"Beauty Is In The Eye Of The Beholder"

「美は視る者の心にある」








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