2021年10月5日

地獄とは・・・

嘗てこのような対比的な言葉を引用したことがある


” The Hell is Others ” 

Jean-Paul Sartre (1905 - 1980)

「地獄とは「他者」である」

ジャン=ポール・サルトル

*

“ Hell isn't other people. Hell is yourself. ”

Ludwig Wittgenstein (1889 - 1951) 

「地獄とは「他者」ではなく君自身である」

ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン


わたしには両者の言っていることは同じに聞こえるが、そのことに関する考察は措いて、今のわたしの心境は、ヴィトゲンシュタインの言い分に傾く。

すなわち

「地獄とはわたし自身である」

吾人の「治癒」と「健康」を妨げているものを、悉く未成熟で陋劣な社会環境に還元することはできない。
鋭敏すぎる美意識や感受性は、それを持つ者にとって、ある意味で「不治の病」であり、それは彼自身にとって「地獄」でもあるのだ。


以下、底彦さんの9月30日の記録を抜粋引用させていただく。

夕方からデイケアで PSW さんとの面接があるのでアルコール依存症のミーティング会場からデイケアに向かう.
ちょっと前までは, この面接では認知療法やスキーマ療法で日々の苦しみについて話し合い, 回復の道筋を探っていた.
けれども, 苦しさの根源であった過去の記憶の問題からほぼ解放されたことで, 深刻に取り上げる話題が無くなった.
強いて言えば, 慢性的な鬱が苦しいということだが, これはある意味で自分の性格に深く根ざしているので治療の名の元に無理に治す ── 性格を変える ── のがいいのかどうかはわからない.

PSW さんも, それはあなた自身なのだから変えなくてもいいのではないかとも言っている.
(下線 Takeo)

もとより現在の底彦さんの状態を軽視するつもりは毛頭ないが、「私が私であることは地獄である」と感じている今のわたしは、この底彦さんの感懐を、極めて複雑な気持ちで読んだ。


先の「再び、書くということ」の中で、底彦さんに

わたしに関して言えば、「普通の人のように成れるものなら・・・」という気持ちはありません。これがわたしなのだ、と胸を張れるものは何一つありませんが、大事なことは、これというもののあるなしではなく、単純に、純粋に「私は私以外の何者でもない」「私が私である」ということ。それ自体なのだと思っています。

と言っている。その気持ちに変わりはないが、今のわたしは、

「大事なことは、これというもののあるなしではなく、単純に、純粋に「私は私以外の何者でもない」「私が私である」ということ。それ自体なのだと思っています。」

などと気楽な(或いは軽々しい)ことは口にできない・・・

「私は私自身でなければならない」というある種の「信念」乃至「信仰」と、その「信念・信仰」ゆえの煉獄の試練の狭間でわたしはいま、のたうち回っている。

しかし一方で、いかにわたしが自己に殉ずることを恐れ、「普通の人のようになりたい」と願ったところで、それはそもそも無理な相談であるということも、承知している。

何故なら、「わたし」は「わたし」として生まれてきたのだから・・・







6 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    私の文章を引用していただきました.
    この引用部分に書いたことは, 私が数か月前から最近までに至った心境を表わしています.
    それは, 私の慢性的な鬱状態を自分の根源的な問題として向き合っていくということを意味しています.

    PSW さんはこの慢性的な鬱を, 私の両親からの心理的虐待や仕事上での大きな失敗の後遺症ではないかと言ってくれています.
    時間が経てば回復するものであろうとも.

    私はそうは思っていません. おそらく一生, 鬱病とその苦しみとは付き合うことになるのだろうと思っています.
    これは私の気質・性格そのものから発していると思うからです.

    Takeo さんが「私は私である」と書いた文章を読んだときに, それは私が目標としたい場所でもあると感じました.
    自分自身が苦しいならば, それを日々の営為として受け入れて過ごしていく.
    それは, 修道僧の日々の生活のようでもありますが, 生き方として尊いものです.
    そこに憧れました.

    Takeo さんは今, それが苦しみとなっているのですね.
    「わたし」の問題は Takeo さん自身の性格と深く繋がっているものですから, 逃げ出すこともできません. 苦しいですね.

    ただ, それが Takeo さんの性格 ── 感性・本能 ── と繋がっているというところに微かな救いの可能性も感じます.
    Takeo さんは繊細です. 人の心や社会の揺れ動きに極めて鋭敏に反応してしまいます.
    そんなところが Takeo さんの苦しみにもなっているのかと思います.

    しかし, その鋭敏さは美や真理に向かうときにその大きな力を発揮すると思うのです.
    私は「Clock Without Hands.」から日々の力を得ています. 背中を押してもらうように感じるときもあるのですよ.
    そこにあるのは, Takeo さんが自らの美意識に基いて選んだ作品の集まりです.

    Takeo さんがそれらの作品を見つけ, 選ぶときに感じているであろう精神的な高揚感を救いとすることはできませんか?
    Takeo さんが「わたし」であることの地獄を, Takeo さん自身の美意識で見出だした作品群で癒すことはできませんか?

    思い付いたことを書きました.
    不快に感じた部分があれば申し訳ありません.

    相変わらず寒暖の差が激しく穏やかな秋とは言えませんが, 体調などくれぐれも崩されませんよう祈っております.

    底彦

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    1. こんばんは、底彦さん。

      >自分自身が苦しいならば, それを日々の営為として受け入れて過ごしていく.
      それは, 修道僧の日々の生活のようでもありますが, 生き方として尊いものです.
      そこに憧れました.

      わたしは精神的に非常に脆いので、この言葉は、寧ろ底彦さん自身に当て嵌まるようにわたしには思えるのです。
      わたしは正に底彦さんはご自分が書かれた通りの生き方を為されていると、今、感じています。
      底彦さんがわたしの文章を通じて感じておられたTakeoという人物は、実は底彦さんが憧憬の念を持つような存在ではありませんでした・・・



      >しかし, その鋭敏さは美や真理に向かうときにその大きな力を発揮すると思うのです.
      私は「Clock Without Hands.」から日々の力を得ています. 背中を押してもらうように感じるときもあるのですよ.
      そこにあるのは, Takeo さんが自らの美意識に基いて選んだ作品の集まりです.

      確かに、美を観る魂は微かな醜さも見逃しません。そのように書いたことがあります。
      しかしそれならば、醜さに過敏に反応する感性は、当然「美」にも鋭敏なはずです。

      前にお話したように、現在のインターネット上で、「これ!」というアートや写真を探し出す作業は、数年前に比べて随分困難になってきています。それでも、十に一つでも(これは文章も同じですが)「ああ、これだよ・・・」という作品に出逢えた時の悦びは未だにわたしは感じています。

      そしてなによりも、繰り返し底彦さんが言って下さるように、わたしの投稿する絵や写真を愉しみ、歓び、美しいと感じてくれる人たちが確実にいることをわたしは知っています。

      そして

      >Takeo さんが「わたし」であることの地獄を, Takeo さん自身の美意識で見出だした作品群で癒すことはできませんか?

      わたしは、わたしのポストで誰かが微笑んでくれたり、肩の凝りがほぐれたり、そこに美しさを感じてくれているという事実に救われています。

      底彦さんが繰り返し繰り返し、わたしのアートブログに、そしてひょっとしたら、「病が半ば癒えた」今もなお、わたしの文章になにがしかの刺激を受けておられるのなら、このブログたちも満更無駄事ではないのかなとも思います。



      今の感謝の気持ちを充分に言葉で言い表わすことはできませんが、これからも続けられる限り、美と共にありたいと、そしてそれを底彦さんたちと共有したいと願っています。

      いつも親切なお気遣いをありがとうございます。

      またこちらこそ、文中ご不快に感じられた表現がありましたらお詫びします。

      今日も暑いですね。底彦さんもどうかおからだお大事にお過ごしください。

      再度、言葉をかけて下さったことにお礼を申し上げます。

      乱文お許しください

      武雄

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    2. 追伸

      上のコメントの文中で、底彦さんの現状を「病半ば癒えた」云々と表現したことに拘っています。
      わたしはまったく見当違いのことを言ってしまったのではないか、と。

      この表現が底彦さんの心を深く傷つけてしまったかもしれません。

      仮にそうだとしたらお詫びの言葉もありません・・・

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    3. こんにちは, Takeo さん.

      気になさることはありませんよ.
      Takeo さんの「病半ば癒えた」という表現で, 私が傷つくようなことはありませんでした.

      正直なところ, 本当に私の鬱病が「半ば癒えた」のかどうかは私自身にもわかりません.
      過去の記憶の苦しみ ── 周囲からの罵倒や恫喝, 冷笑などの記憶 ── からほぼ解放されたのは事実ですし, それによって日々の生活, 特に精神生活が妨げられなくなったのも事実です.
      これは私にとってや喜ばしいことです.

      けれども, そうした苦しみを取り除かれたことによって, 慢性的な理由不明の鬱状態が続くということが明らかになりました.
      先のコメントにも書きましたが, これはおそらく私自身の気質・性格に起因するものではないかと考えています.

      この辺りのことは, 自分でも考えて整理してみます.

      深いお気遣い, ありがとうございました.

      底彦

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    4. こんばんは、底彦さん。

      「病半ば癒えた」という表現は、必ずしも「不適切」ではなかったにせよ、正鵠を得ているとは言えなかったということですね。

      最初のコメントで底彦さんはこう書かれています。

      >Takeo さんが「私は私である」と書いた文章を読んだときに, それは私が目標としたい場所でもあると感じました.
      自分自身が苦しいならば, それを日々の営為として受け入れて過ごしていく.
      それは, 修道僧の日々の生活のようでもありますが, 生き方として尊いものです.
      そこに憧れました.

      わたしが、或いは底彦さんが、苦しみ、日々の円滑な生活を犠牲にしてまで守りたい「私」ー「私が私であること」とはいったい何でしょうか。

      苦しみを代償としてでもそうあり続けたい「私」とは?



      「わたし」が「他ならぬこのわたし」として生まれてきたことに必然性は存在しないと思うのです。「わたしがわたしである」ことは「科せられた」ことではなく「偶然の産物」に過ぎないと言っても過言ではないと思います。

      しかし同時に「わたし」が「わたし」であることを選択することで、これほどまでに苦しまなければならないというのは、ある種日本という遅れた国の宿痾に起因する、と言えるかもしれません。

      「わたし」が「あなた」でなく「彼」でもなく「彼女」でもない、ということはこの国ではある種の禁忌ではないでしょうか。
      つまり
      わたしは「あなた」でも「彼」でもあり「彼女」でもある ──「みんな」の一部でなければならない ── という暗黙の認識の共有が、この国全体に地下茎の如くに行き渡っているように感じます。
      「わたしはあなたではない」という、全く自明の理が、この国では受け容れ難い。
      それはなにか「子供は・・・」「大人は・・・」「社会人は・・・」「男は・・・」「女は・・・」「障害者は・・・」こうあらねばならないという無検証の前提・規範というものが、内面化されていて、そこから自由になれない思考の未熟さに起因するものではないかと考えます。
      同時にそれが日本という国が容易に全体主義に染まりやすい傾向を持つ国であることの前提ともなっています。
      いや・・・「全体主義化」という以前に、そもそもに於いて日本という国は全体主義的な国であり、そのような国民性を有していると感じます。

      そんな中で「私であることを貫く」といういことは、ある意味「円滑な日常生活」という営み以上に(底彦さんの言葉を借りれば)尊く気高い生き方かもしれません。

      「わたしがわたしである」ということを、一種の「障害」と見做す。それがこの国なのだと考えます。

      「Q.O.L.」(クオリティー・オブ・ライフ」という視点から見れば、「完全なる治癒を望まない」ということは、明らかなマイナスなのでしょう。しかし繰り返しますが、健康で「順風満帆」な日常が、「わたしがわたしであること」を犠牲にしてのものであるとしたら、そもそも「人生の質」とは何かという地点から掘り起こさなければなりません。



      精神の病を得ることでうしなうもの(こと)は他の誰でもが持ち得ること。
      けれども心の障害を持つことによって得られるものは、あくまでも独自のものであると考えます。

      「クオリティー・オブ・ライフ」といっても、日本にあっては、所詮は「人並みの生活」くらいの表層的な意味しか持ち得ないのではないのでしょうか?

      「治癒」ということと、自分がその中で生き、暮らしている場所、即ちクニ(=文化圏)とは、やはり分離しては考えられないと思うのです。

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    5. 追伸

      「わたしがわたしである」=わたしがわたしの持っている様々な特性・属性を残したまま「普通の日常生活を送ることができる」「多様性」こそが国の豊かさの第一の規準ではないかと考えるのです。

      ある種の(特に精神の)障害は社会の仕組みによって産み出されるのではないかと思うのです。
      ヴォーヴォワールの『第二の性』に記されている
      「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」
      という有名な言葉を借りるなら、
      「人は障害者として生まれるのではない。障害者にさせられるのだ」ということも可能かもしれません。

      社会の不寛容という病理によって。

      どうか心穏やかな週末を送られますよう。

      武雄

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