2020年4月16日

「すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか」


ここのところ、また小賢しい言葉に対する嫌悪感が強まって来ているような気がする。

気が向くとごくたまに覗きに行くブログがある。元古書店主夫婦の妻の方が書いている「猫額洞の日々」という。書いていることはいちいちもっともで文句のつけようもないのだけれど、どうしても波長が合わない。その「波長の合わなさ」について今は考える気になれない。

「リツイート2本」-ここで猫額洞が引用している記事も、著者が1982年生まれ、つまりわたしよりも約20歳若いという時点で熱心に読む気になれなかった。
もうこれは山田太一の『男たちの旅路』の鶴田浩二が、「俺は若い奴らが嫌いだ!」というのと同じ生理的なレベルの拒否反応なのでどうしようもない。

「戦争」と「疫病」のアナロジーについても、言いたいことはあるが、今は考えがまとまらない。ごく簡単に言うと、確かに数十万、数百万単位で人が死んでも窓ガラスひとつ割れない「戦争」というものはない。「戦争」とはいわば「都市を破壊する行為」に他ならない。戦争の勝ち負けは如何にして敵国の首都を制圧するかにある。

しかし一方で、常に死の危機にさらされているという点に於いて、比較できるのは「戦争」以外にはない。コロナに対する「戦争」の比喩は完全に的外れということはできない。




すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか

そのように問うまでもなく、世界は以前と全く変わらぬ状態で再び動き出すだろう。
少なくとも、戦争に伴う「都市の壊滅」という目に見える喪失が存在しないかぎり。
そして無論わたしはそんなことを望んではいない。「現代」が如何にわたしにとって生き難く、生きているのが苦痛であったとしても。


もしも、僕たちがあえて今から、元に戻ってほしくないことについて考えない限りは、そうなってしまうはずだ。まずはめいめいが自分のために、そしていつかは一緒に考えてみよう。僕には、どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない。実のところ、自分の行動を変える自信すらない。でも、これだけは断言できる。まずは進んで考えてみなければ、そうした物事はひとつとして実現できない。(下線Takeo)

「現代」が「現代」である以上「どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない。」のは当然だ。

少なくとも我々が進歩とか成長とか便利さとか、効率という発想を棄てきれないかぎりは・・・そしてそのような発想を棄てるということは限りなく不可能に近い。否。絶対に不可能だ。

「人にやさしい現代」というものがそもそも撞着語法なのだ。

彼は今回のことから何かを学ばなければならないと書いている。

彼にバイロンの言葉を贈る。

「我々が歴史から学んだ唯一のことは、我々は歴史からなにも学ばない、ということだけだ」


ー追記ー

今日母が病院にいつもの薬を取りに行った。処方箋をもらうだけだが、人が多く、処方箋を出してもらうのにも、そしてその後の会計にも結構な時間がかかったという。
その点「多摩総合医療センター」や御茶ノ水の眼科は自動会計で、機械でやるので、手間が省ける。
そこで「戻ってほしくない世界」というものが、人の手で何でもやる、いわば「手間と時間のかかる世界」のことを言うのだとしたら、わたしはその考えに到底与することはできない。

全国の図書館の休館によって、「デジタルコンテンツの充実をおろそかにしてきたことが悔やまれる」と図書館協会(?)の長か誰かが言っていたが、それもおかしい。休館前にそのことを地域住民に知らせる方法が拙かったことを、これを奇貨としてデジタル書籍への大幅な転換を図っているとしたら。

スピルバーグが近未来を描いた映画、『マイノリティー・リポート』はCGを多用していることもあって稚拙な、見るに堪えない作品であったが、未来を予測できる能力を持った者たちが「解放され」人里離れた村で、ログハウスのような家に住み、暖炉の火で暖を取りながら、昔ながらの「紙の本」を読んでいるラストシーンで終わる。
稚拙な比喩だが、スピルバーグは、我々が「戻るべき世界」はこういう世界ではないのか?と言いたかったのではないだろうか。或いは我々が夙に「喪ってしまった世界」とは・・・

取って付けたような幼稚なラストシーンも含めて、わたしはこの映画を全く評価しない。ただただ、近未来都市のグロテスクさを、これでもかというくらい見せつけられる。
その点で、トウキョウのグロテスクさを余すところなく描いたソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』と双璧を成す気味の悪い、そして気の滅入る映画である。
「気が滅入る」というのは、それが1つは現在の東京という「現実」を映し出し、もうひとつはこれから来(きた)るべき世界の様子を、ほぼ正確に描き出しているという点に於いてである。唯一そこに救いと希望を見出すとすれば、「今の現実」「すぐ目の前の現実」の醜さに、「生への執着」が薄らぐ、ということだろう。











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