現実から逃避するということは現実を見ないということ。それについて考えないということ。
このブログをいつ再開するのか、今はわかりません。再開?どのように?
今わたしはアートブログにいます。
Myspaceが崩壊した後、Tumblrを始める前から投稿しています。
その後2011年3月から2020年3月まで、タンブラーでおよそ2万2千点の絵や写真を投稿してきました。現在はTumblrから距離を置いています。Tumblrが今風に仕様変更して、なんとなく気分が乗らなくなってしまったからです。
Junkoさん、先程先のコメントをメールでも読みました。こちらに残してくれたコメントに書かれている以上の大事なことが書かれていました。今は人のちょっとした気遣いが身に沁みます。
目の状態以前に、今のわたしは書けないし、話せません。
フォロワーもいず、「いいね」もない旧式なブログで、静かにアートで心慰めています。
◇
今日の新聞の歌壇の欄に
「死にたいと思ったことのない人のこころを家宅捜索してみたい」
という歌が選ばれていました。
気持ちは全く同じですが、現代短歌はやはりわたしには情緒に欠ける気がします。
このブログを中断することで、Junkoさん、底彦さんとの音信が途絶え、9年間続けてきたTumblrからも距離を置いて、今、とても孤独です。
仮初の 人の情けの身に染みて まなこ潤むも 老いのはじめや
Ciao Takeoさん、
返信削除音信は途絶えているかもしれませんが、思いの線は繋がっていますよ
私はかつて日本で、人々に囲まれているにも関わらず孤独、という感じを味わったことがあります。
それは互いの理解やら思いが希薄だったからなのですが、誰かと一緒にいるのに孤独。と言うほど肌寒いものはありません。
私がイタリアに住み始めてから、日本の、とりわけ母とか、何人かの友人とは、連絡も頻繁にしない、ましてや顔を見る事もないのに、それでもより心の繋がりを強く感じるようになりました。
「思い」という見えないもので繋がっていることの方が、よりその人との繋がりの温もりを感じれるのですね
人はどうしても目に見えるものに影響されがちですから、肉体的に側にいると思いを飛ばす事を疎かにします。
私はTakeo さんのことを時々考えています。
そしていつもTakeo さんとTakeoさんのお母様が、もっと気持ちよく、心軽く暮らせないものかとお2人のご健康お幸せ祈っています。
Takeoさんの苦しみやお母様の思いは私には想像できないほどのものですが、なんとか気持ち良く、心持ちゆったり暮らしていただけないものかと少し悩みます。
きっと低彦さんも同じように思っていらっしゃると推察します。
ちょっと思いを馳せれば、少なくとも私やそして低彦さんの思いをきっと感じていただけると思うのです。
(底彦さん、勝手に仲間に入れてすみません 苦笑)
ですから、そういう意味でTakeo さんは孤独ではないと私は思います。
「死にたいと思ったことのない人の心を家宅捜査してみたい」
苦笑
言いたいことはわかりますが、家宅捜査、、もう少し気の利いた言葉が使えないものかなあ、、と
短歌の粋が台無しです。
私は傾向的に「現代」という言葉が嫌いです。
引き続きお大事になさってください
そして引き続きお返事は無用です。
こんばんは、Junkoさん。
削除いろいろとお心遣いをありがとうございます。
今更ながら「孤独」ということについて考えています。
一昔前までは「群衆の中の孤独」という表現がありました。
既にボードレールなどもそのような表現を使っています。
確かに人混みの中でひとりでいることの心地よさ、のようなものをわたしも何度も味わったことがあります。けれども、今は外に出て人中に紛れるということはただただ疲弊するだけです。少なくともわたしにとって最早「群衆の中の孤独」などという文学的情景は既に失われたものです。
先程ふとタンブラーで過去にわたしがつけた「スキ」の履歴(アーカイブ)を見てみたら、そこには前と変わらぬダッシュボード(ホームページ)がありました。
わたしはダッシュボードが「今風」に仕様変更されたからTumblrを去ったので、このダッシュボードに戻せるなら・・・と思いました。
けれども仮に元のダッシュボードに戻すことができるならわたしはタンブラーに戻るだろうかと考えた時に、「もちろん」とは即答できません。
今は自分のブログで細々とですが好きなことをやっています。
こちらで、二階堂奥歯がそうだったように、ライバル視しているブログもあります。
それにそもそもタンブラーのダッシュボードが旧式のものに戻るということは「立ち止まる」とか「後戻り」という概念のないITの世界ではありえないことです。
現実世界でも、デイケアはやっているようですがデイケアにも精神科にも行く気になれません。行く意味がわかりません・・・
自分がこの世界のどこに属しているのかがわかりません。
タンブラーに戻れなくても、少しづつ、本を読めるようになれればいいと思っています。
わたしは単に言葉ではなく「現代」が嫌いです。ついてゆけないのではなく、ついてゆくつもりなどさらさらないのです。
図書館が休館です。母の借りてきた古井由吉の短編小説が面白そうなので、今度借りて読もうと思います。今七八十代の人たちはきちんとしたそして難解な日本語を使うので好きです。もう軽薄さにはうんざりです。
親切なメッセージをありがとうございます。
Junkoさんのお気持ち、確かに受け取りました。
Junkoさんも、そしてみなさんもどうかお元気で過ごされますように。
武雄