「外へ出ればからだにいい」と言われている。おそらく太陽の光を浴びてからだを動かすことは、部屋の中でじっとしているよりはいいのだろう。
しかし「からだにいい」ことが「こころにもいい」とは限らない。
わたしは外に出ると本当に気分が滅入る。
ツマラナイ、アアツマラナイ ツマラナイ・・・
単純に外気を浴びること、少しでもからだを動かすことは健康にいいとされる。だから少し無理をしてでも外に出るようにした方がいいと。
しかしわたしは、じゃあ「健康とはそもそもどういう状態をいうのか?」というところで立ち止まってしまう。
心の底に重く沈殿しているどうしようもない虚無感、索漠、アンニュイ、厭世(人)観と、からだを動かすことによって得られるという「健康」とはどのように並置共存し得るのか?
「そんなことじゃ病気になっちゃうよ」
病気になるのは厭だ。けれども、病気ではない状態とはいったいどういう状態を指すのか?
健康とは、単に疾病がない状態をいうのではないと思っている。
また仮に病気や障害があっても、健康である人はいると思う。
その人の存在が、意識が、何ものかによって充たされている状態を健康と呼ぶのではないだろうか?
「戦場での健康」「永遠の漂流を続ける宇宙船内での健康」「刑務所の中での死刑囚としての健康」「動物園の檻の中での健康」・・・そんなアポリアからどうしても抜け出すことができない。
言い換えれば、21世紀の日本で、健康であるということは可能か?と考えずにはいられない。
(わずか70数年前、「健康な成年男子」であることは、「死の保証」に他ならなかった。)
◇
精神病理学者木村敏は、2005年の朝日新聞のインタビューの中でこう語っている。
「69年から滞在したドイツで、先輩に誘われて、ハイデガーの自宅を訪ねたんです。
不十分なドイツ語を操り、離人症の問題などを80歳の大哲学者にに必死でぶつけてみた。でも彼は精神病を「非本来的」で「頽落」だと言う。違う。彼らはあなたの哲学が言う本来性を持つ、「自分が自分でありたい人たちなんだ」と説明したけれど、納得いく答えはもらえなかったな」
「健康」という抽象的な状態があるのではない、個々人にとっての健康、具体的なかたちを伴った健康のみがあるのではないだろうか?
「健康」とはなにか?
「狂気」とは?
それらのことについて先ず知らなければ・・・
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