2018年6月4日

呟き人との対話、または「エアー・リプライ」Ⅱ



Hさん(ブックデザイナー)

「何かを見、強い印象をうけたときのことを思いだしてみると、たいてい、ひとりのときに経験したできごとである」(石井桃子)。ひとりのときだけ開かれる、回路のようなもの。ひとりのひとだけに語りだされる、ことばのない物語みたいなもの。めったにないけれど、ときどきほんとうに、それは起こる。

Takeo:ボナールは「友は世界の翻訳者である」といったけれど、わたしはひとりぼっちの時にはすべての・・・いや、「何かうつくしいものを感じる」感覚が閉ざされ、蓋をされているように感じます。

二つの眼、二つの耳では捉えきれない何か、誰かと共有することではじめて見えるもの、聴こえる声があります。


Sさん

人の口から小さく漏れた言葉に根っこの腐った臭いを感じることがあった。その舌は死の毒に満ちていて、やがては全てを呑み尽くす悪の勢いを感じさせる。人望厚いとされる男の顔を見ながら、霊の淵から立ちのぼる低い声のぬしに私は対峙していた。こんな身震いすることがあるものだ。

Takeo:かつて辺見庸が、谷川俊太郎が保険会社のCM用に作った詩についてこれと似たようなことを言っていた。(自分と大企業の金儲けのための)甘く優し気なことば。まったく同感だ。


Sさん(大学の仏語の先生)

佐々木幹郎が『中原中也-沈黙の音楽』で指摘しているように、文字の連なりは声を音声的に再現するものではありません。そのことは承知していながら、それでも記された言葉に「声」を感じる読み方しかできません。情報として文を読めない。そうすると、いきおい多読はできません。ちょっと悩ましい。

Takeo:二階堂奥歯は小さいころ、本は声に出して読むものだと思っていた。ところが、或る日、発声しなくても言葉が理解できることに気が付いた。それは彼女にとって衝撃的な驚きだった。それ以降彼女は驚異的な数の読書を死ぬまで続けた。


Sさん(北国の花好き)

この世界は悪意に満ちた地獄だと思っているから、わたしは幸せではないかもしれない。でも生きてるうちは、地獄で花を植えていようと思う。

Takeo:好きな花に囲まれていれば、それがどこであっても地獄ではない、と思います。
残念ながらわたしには花に代わるものがありませんが・・・


Kさん(ライター)

「この世界の何が本物で何が幻なのか、私にはもう区別がつかないんだ。私は、私を信じることも、私が目にする世界を信じることも、もうできないんだ」(樋口直美)

「幻視という孤独」

Takeo:目に映っている世界のなにが幻で何が現実なのか、その区別がつかないという現象はわたしの想像を超えている。わたしが感じているのは、それが現実であっても、どうしても馴染めない世界に生きているという事実。そして人間は、生きてゆくために人為的な「幻」を必要とすること・・・

「現実と幻」、いったいその境目・相違とはなんだろう?
ツイッターのタイムライン上に溢れる様々なうつくしい風景写真。それは「わたし」にとってどのように「現実」であり、どのように「幻(イリュージョン)」であるのか・・・


Sさん(評論家)

自殺幇助で2人逮捕の報に西部邁さんの長女のコメント。「頼まれても2人には断って欲しかった」(読売)、「なぜ(父が2人に)自殺を手伝ってくれと頼んだのか申し訳ない」(毎日)。その両方の気持ちに自責の思いが混じって苦しまれているのでは。自殺の問題は、当人の死生観だけでは語れない。

Takeo:もし自死というものが、その命の持ち主だけの問題ではないとしたら、いったい誰がその人の人生(言葉を換えれば、個々人の持つ「運命」)を代わって生きてくれるのか?誰がその人の苦悩を肩代わりしてくれるのでしょうか?

いったい何者が、苦しむ誰かの背負う十字架を代わって荷える資格を持つのか?


Sさん(サイエンティスト)

いいぞ/グーグル、“犬の目線”のストリートビュー公開

Takeo:さすが科学者。バカ丸出し。人はどこまで堕ちれば気が済むのか?


Kさん

"戦争は、私たちから数え切れないものを奪う。町、村、家、友人、仕事…。風景、空気、光、水…。奪えるかぎりを奪う。 名前さえも、奪う。ある幼稚園で、「あなたの名前は?」と先生に尋ねられた男の子は、「ぼく難民」、と答えた
「名前」に象徴されるアイデンティティーさえも、戦争は奪ったのだ。"
山崎佳代子 『そこから青い闇がささやき』抜粋

Takeo:平和と繁栄はなにも奪いませんか?それは町、村、家、友人、仕事、風景、空気、光、水、そして人の尊厳、魂さえも奪いませんか?
奪われ(得る)ものを基準にしたとき、この国は今戦時下でしょうか?そして真の平和とはなんでしょうか?


Jさん

ことばに したから のこる おもい ことばに できずに きえた おもい

Takeo:ことばに したから

    わすれた おもい

    ことばに できずに

    とどまる おもひ 















6 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    なんでだかわからないんだけどね

    どうも私はツイッターが嫌いらしい
    ( た
    やった事もやろうとした事もないけれど、)
    ちゃんとした文章もあるのだろうが、ことごとく ただの一文も、
    心にどころか、全然 目にさえ入ってこないから、読む気にもなれない
    なんと言うか、、
    文字に全く力が感じられなくて
    なんか、、妙に気持ち悪いんですね
    筋肉が萎えてしまった生物を見てるようで、

    結局 ツイッターなんて きちんとした文章を書けない人間が書くもんではない。そんな事さえ考えてしまいます

    私は言葉が好きなので、なんか冒涜されてるような気がするんですよね
    それに比べて 素晴らしい俳句の、あの研ぎ澄まされた凛とした美しさ
    同じ文字なのに、、、 ね 苦笑

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      そうですか。わたしはJunkoさんほどの拒否反応はないようです。(まぁだからこうして反応しているのですが)
      でもJunkoさんの気持ちもわかります。
      どうわかるのか?と問い詰められると困るけど、言葉を冒瀆しているという感覚はわかるのです。基本的にはそう思っています。

      ツイッターーSNS=軽薄という先入観がわたしにもあるのかもしれません。

      感想が聞けないのは残念ですが、Junkoさんのツイッター嫌いを尊重して、あきらめます。(笑)

      コメントをありがとう^^


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  2. Takeoさん
    多分ね、、、
    読むであろう相手を意識し過ぎてるから、
    なんと言うか、言葉って人に読んでもらう、と言う目的以前に自分の言葉でなくてはいけないと思うのだけど、
    なんか「 一発書いてやろう」 みたいな無駄な意気込みと言うか、、
    そうして意気込まれても、はぁ、、それがなにか? な訳で、、
    結局 内から出た言葉でもなく、それこそ ただの呟きにもなりきれていない、
    空っぽの箱より存在が希薄な言葉だな、、と
    で、言ってる事と言ったら、別に何を今更、、と感じるようなものだしね、
    (だから感想もない、、書くのは自由だと思いながらも、書くの止めれば?と言いたい)
    こういう時 言わずが花とも 言いたくなる のよね 笑

    こう言う言葉を平気で公にツイッターして、まあ、そうして悦に入ってる人の、その恐ろしいほどの表面的さとつまらなさが、、、
    どうせ、スマホを片時も話せないんでしょ。と言う民族の顔のない顔と重ね合わさっちゃう、、
    つまり
    電車で、もしくは駅の雑踏の中で、周りの迷惑も考えず、歩きスマホやってる人間を見つけた時の、( 一度 後ろから蹴りを入れてやりたい ) そう言う時に感じる、あのいやーーーな感じを、うわ、嫌なもの見ちゃった、みたいな、、、
    それと似た「ウザさ」を感じるのです

    ははは、酷過ぎますか?
    容赦ないね、、私
    多分こう言う人種の吐く息は、地球温暖化以上に環境に悪だと思っているし、
    口もききたくないし、そういう人々の呟きなど聴きたくもないし

    ははは、すごい人種差別ですね
    それでも私はひたすら 差別し、区別します



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    1. こんばんは、Junkoさん。

      わたしがツイッターを視始めたのは今年に入ってから。見る範囲も限られているので、その全容を把握しているわけではありません。
      「まったくどうでもいいつぶやき」というのもあるのは知っていますが、Junkoさんにとっては、ここでのすべてのつぶやきがそのような無意味なものになってしまうのですね。(苦笑)

      けれども、ここでわたしがJunkoさんに同調して、「そうだよねー!」という資格はなさそうです。

      Junkoさんが「ツイッター上」の「言葉」について述べた批判から、わたしがここに書いているものが免れているとは思えないからです。

      自分ではあくまで自分のために書いていると思っていますが、どこかにいるかもしれない「読み手」にどう思われるか?ということを、これっぽっちも意識していないかというと、そうではないようです。

      ただ、「読み手」にどう思われるか?という気持ちが少しでも意識上に上ってくるとわたしはもうなにも書けなくなってしまうので、あくまでも自分のためという意識を保っています。
      (昨日の投稿にもらったyy8さんのコメントへの返信にも同様のことが書かれています)

      「スマホ」というミディアムに関しては100%思いを共有し、一緒になって悪口を言うことはできても、「言葉」「思い」を発信することについては、またその「質」については「彼ら/彼女ら」を指さすことはできないと思っています。

      ただ、誰かが見て、Junkoさんがツイッター人たちに感じるのと同じ思いを抱かれたとしても、わたしは書くことを止めることは出来ないと思っています。

      yy8さん同様、率直な感想をありがとうございます。

      PS.

      言うまでもなく、このコメントが暗にわたしを批判しているなどとは思っていません。ただ、「言葉の耐えられない軽さ」について、他ならぬ己の問題として受け止めているのです。

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  3. Ciao Takeoさん
    苦笑
    確かに「 人の振り見て我が振り直せ」な真摯な姿勢は、好ましくもありますが、
    Takeoさんはこの場合、(まあ、ご存知だとは思いますが) 全く蚊帳の遠く外。です

    Takeoさんの事を話し言葉を知らない。と書いていた人がいらっしゃったけど、私はそうは思いません
    Takeoさんは、話し言葉知ってらっしゃるし、takeoさんの話言葉は、なんだか夏目漱石さんがもしかしたらこう言う話し方をしたのではないかと、思わされるような、丁寧さの中に古風な趣が感じられ、かつ日本語に造詣が深く、文を組み立てる術を心得ている人のその品性みたいなものがあって、
    私は好きですけどね

    ツイッターとか 特にライン、なんて、名前を聴いただけでゾッとします
    ラインやってますか。と聴かれると、人肉喰ってるそうですね、とでも言われたような、悪寒が背筋を走る。 ははは 苦笑
    ジョーダンジャアナイデショ、と。
    ソンナモン ヤルワケガナイ ジャアナイデスカ!

    つまり2つとも、人が思いつきで ろくに考えもせず、「ただ書き込む」 から不快なのではないかと、
    「書き込む」ですからね、「書く」じゃあない
    用紙に記入するとか、アンケートに書き込むとか、そのレベルと全く変わらず、そこに人の思考を感じられない
    用紙記入事項は、単なるデータであって、文ではないしね


    言葉は 、ただの文字の羅列ではなく、そこに言霊が籠っていなければならないのですから、
    言葉として、それでは片手落ち どころか 意味を成していない
    そして そこに
    言葉を軽視し、言葉を濫用してる、って事におぞましさを感じるのです
    そして 魂も嫌がって籠らないような言葉は、文章などではなく、ただの文字の羅列であり、言葉への、文字への冒瀆だと私は考えています
    私は「考える」事が好きで、「考える」人間こそ人間であると思っていますので、「考えない」行為を伴う行為は、緩くて曖昧で 見てられない、と言うか、読んでられない。のですよね
    まあ、だからと言って私の書く文章が素晴らしいと言ってる訳ではなく、つまり私は美しく、感性に溢れている言葉が好きなのであって、これらは私が読みたいと欲する類の文章とは、遠くかけ離れている ということです。


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    1. こんばんは、Junkoさん。

      「話し言葉」を知らない。そういわれて、面白い見方だなと感じました。
      不快にも感じなかったし、的外れとも思いませんでした。
      ただ、話し言葉=ラフでぞんざいな物言いで、書き言葉が真面目で丁寧という事と同じ意味だとすると、わたしはやはり書き言葉で話したいと思います。

      前にも書いたかもしれませんが、わたしは言葉に関しては頑なに保守的です。
      時代と共に言葉も変わっていくという意見には与することはできません。
      まぁ、単なる堅物といわれてもしょうがないと思っています(苦笑)

      一方で、「言葉」というものへの懐疑を強く持ちながら、使うからには丁寧に取り扱いたいという気持ちがあります。

      >ラインやってますか。と聴かれると、人肉喰ってるそうですね、とでも言われたような、悪寒が背筋を走る。

      あははは(笑)

      わたしには、文章に笑いを採り入れる気力と体力が欠けていますね。
      そもそも、もうユーモアのセンスさえ、とうに揮発してしまっているのかもしれない。

      ユーモアの本質は、「にもかかわらず」だと昔、上智大学の学長が言っていましたが、苦しさ、悲しみ、逆境にもかかわらず・・・そういう強さがわたしには決定的に欠けているなぁとその話を聞きながら思ったことでした。

      漱石、子規、そして太宰、みな面白いですよ。笑わせてくれます。ほほえみを与えてくれます。
      放哉も、いわば乞食坊主の生活の中でも決して陰気ではありませんでした。ほんとうに頭が下がる・・・などと言ってるところがいかにも糞真面目なわたしらしくて厭になります。

      >魂も嫌がって籠らないような言葉

      詩人の石原吉郎が、「主体であるわたしたちが貧しいから、言葉がわたしたちを見棄てるのだ」と書いているのを思い出しました。

      単純に、「何故ツイッターなのか?」と訊きたいですね。
      何故ブログじゃ駄目なのか、と。
      そこにはやはり「人目に付きやすいから」という理由があるのかなと思います。

      「ツイッターは好きか嫌いか」と訊かれれば迷うことなく「キライです」と答えるし、LINEに至ってはお金をもらってもやりたくないと思っていますが、理由はやはり、スマホ同様、「言葉に対する気安さ」、ではないかと思っています。





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