2018年6月23日

漫然と…書きたいことを…


本を読む気になれない。ビデオやDVDで映画を観る気にもなれない。
一日の大半を、寝ているか、ネットを漫然と眺めて過ごしている。
昨日は久しぶりにTumblrと、ブログClock without handsに絵を投稿した。
どうしても19世紀頃の田園風景が多くなる。ツイッターなどでも、最近は(?)
綺麗な(言い換えればありふれた)風景写真が幾らも投稿されているので、「心安らぐ風景」には食傷気味のところがあって、どうせならもう少し「絵画らしい」ものをと思うのだが、以前のように鷲の目、豹の目を持ってネット上を渉猟して歩く気力も無くしてしまった。
ほんとうに無くしてしまったものばかりで生き続けている・・・





『万引き家族』という映画が話題らしい。わたしは是枝監督の映画を一本も観たことがない。是枝監督はカンヌでグランプリを取りながら、日本政権中枢の不興を買ったことが不本意であったのか、「一切の公権力と距離を置く」と発言していた由。
表現者である以上、自国に限らず「国家」という存在から一定の距離を置くというのは当たり前のこと。
外国の例は知らないが、日本ではそういう当たり前の見識を持つ人がほとんどいない。誰も彼もが国から、具体的には時の内閣総理大臣や天皇から文化勲章やら紫綬褒章などをもらって目じりを下げて尻尾を振るのである。

特別この映画を観たいとは思わないが、いづれDVD化され、機会があれば・・・という感じだろうか。
「救いのない映画」であればいいなと思う。
わたしが好きな映画のベストテンにあげる映画は、どれも救いのない作品ばかりだ。無論涙もない。
エンターテインメント作品として、笑いあり涙ありというのは構わないが、ドラマとして観るなら「涙」も「ラストの救い・仄かな希望」も、邪魔なだけだ。





知り合いのブログに、彼女が飼っている、というか共同生活しているカメについての投稿があった。
文章も写真もとてもいい。
あれを読むにつけ、見るにつけ、つくづく人間というのは下等な生き物だと思う。
「人間は考える葦である」(パスカル)を含めて、人間存在を動植物より上位に置くような発想には与しない。
ただ人間はその憐れさによって幽かに輝きを保っている。

「老い」と「稚気」・・・老いには稚気があるからこそ愛おしいように思える。無論これはわたしの「趣味の問題」に過ぎない。





昨日〈辺見庸のブログ〉を見た。
彼がブログをやっていることは数年前から著書を通じて知っていたし、ブログから抜粋された文章が本に載せられていることもあるので、興味はあったが、実際に訪れることはしなかった。
かつて一度だけ覗いてみたことがあったが、書籍広告の多さに驚いて、以来一度も行っていない。

昨日訪れたブログはあっけないほど普通の素人臭いブログであった。余計な広告が一切なくなっていて、その分親しみやすさを感じた。

一番古い記事が昨年の7月になっている。それ以前のものはどうなっているのだろう?
別に何としても古い記事が読みたいというわけではないが。

夕べちょっと覗いてみただけだが、長文の投稿はあまり見当たらず、あれなら一日で全投稿を読むことができるだろう。

ちらっと覗いてみたところから印象に残った箇所を引用する。

◇◇


『疯爱』は、映画であり文学であり絵画であり、暗がりから存在論を開示する最良の哲学書だ。「にんげん以下、動物未満」ないし「にんげん以下、バケモノ未満」。にんげんとはけだし、「にんげん以下」なのだ。」
 ◆


「狂者と厄介者こそ、にんげんという現象の基本中の基本である。
盤石の常識人こそが、真性の異常者である。」

  

「「罪人が刑場にひきたてられ、あるいは処刑されるのを眺めようと走ってゆくときの人の激しい欲望は、(高尚な)演劇をみにゆくときをしのぐ」・・・カントだったか。」

(以上2018年6月投稿文より)


「一昨日と昨日は、小林正樹の「東京裁判」(1983年)をみました。部分的にはもうみていたのですが、4時間半以上一気にむきあうと印象がちがいました。最大の関心は「天皇」のとりあつかいでした。
新発見はとくにありませんでした。でも、みてよかったです。
どっと疲れましたが。

「応答に抑揚低き日本語よ 東洋の暗さを歩み来しこゑ」(宮柊二『小紺珠』)
を、またもおもいました。武士道はウソですね。サムライ・ジャパンなんて、
「東京裁判」をみたら言えなくなります。いじましく、さもしく、みすぼらしく、
うそ寒く、無責任で卑怯・・・。A級戦犯らだけでなく、(米国主導のシナリオで)
法廷にたつのをまぬかれた、すめろぎじしんがそうなのです。

法廷におけるかれの不在を、映画はつよく意識させます。われらはあの卑怯者の赤子なのです。あれから70年、ニッポンジンのビヘイビアは基本的にかわっていません。
小林正樹も、あれまあ、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章をもらい、世間もそれを奇妙とおもってはいません。「人間の条件」の小林正樹さんも、しきたりどおり、穴におちたのです。
このクニには、みえない黒い穴があります。戦前も戦中も戦後もいまも。
底なしの穴です。そのなまえは「エンペ」といいます。たいていのものが、その穴におちます。おなじ穴の狢になります。」

(2017年8月投稿より)




辺見庸という人はヘンな人だ。芥川賞受賞作家であり、中原中也賞受賞の詩人のブログとはとても思えない。そこら辺の素人のブログと変わるところがない。
本の中でも時にひどく下品で下衆な言葉遣いをする。けれども決して不快ではない。
自棄なのか?韜晦なのか?
ある時は昏く深い水の底に真っ直ぐに沈潜して行ったかと思うと、
突然与太郎になっていたりする。

ブログは読み続けようと思う。
信奉も心酔もしない。あくまでも遠くから、けれども時にこっそり手を伸ばして旨そうな果実は失敬する。

辺見庸に限らず、誰であっても。



ー追記ー

辺見庸は、
「『瘋愛』と『精神』を同列でかたるのはバカげている。レベルがまったくちがう。」
と書いている。
相田和弘監督の映画『精神』は、母は映画館で観、わたしはレンタルDVDで観た。
出来のわるい映画とは思わなかった。だた、相田和弘を嫌いなのかなと思った。
とにかくリベラル嫌いの人だから。


昨年の8月に『精神』を観て、その感想をブログに書いた。
『精神』(病むということ)













2 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    ボンジョルノ。
    土日は イタリアは電気代が安いので、私の土曜日は洗濯機を回す事から始まります
    私の洗濯機は 友人の亡くなったお母さんのを譲り受けたので、最新のあの「静かな」奴ではなく、ドィワン ドィワン と音を出し 洗濯槽が回り出すと キーと言う音を出しますが、それを聴きながら ご苦労な事だ。と思っています

    辺見庸さんのブログに早速行ってきました
    私が にっこりしたのは この部分

    「 犬はヒトによって再構成されたオオカミだという。では、ヒトは
    なにによって再構成されたサルなのだろうか?資本と市場によって
    完ぺきに再構成されたバカザルである。」

    わはは
    バカザルが ヴィトンだのグッチだのと着飾り、偉そうに森を破壊し、夏になったら、魚のように泳げもしないくせに、キャアキャアと海に繰り出したかと思うと、共同の簡易トイレが嫌だと海の中で平気で排泄する
    それでは 誰かが自分の家の前で排泄したら、目の色変えて怒る
    この2つの行為のどこに違いがありますか。 と
    バカと言うか、多分地球上で最低の生き物

    Takeoさん
    山の中で 冬に温泉に入る猿がいるって知ってるでしょ?
    あれって みんな入れないって知ってましたか?
    BBCのドキュメンタリーって素晴らしいんだけど、それで日本をやってました
    広いまさに湖のような温泉に猿が十数匹浸かっている
    辺りは一面雪で 温泉からは湯気がもうもうと立っている
    それを何十匹もの猿がね、入ろうともせずに雪の中で膝を抱えて見てるのよ
    湖に彼らも入れるスペースは充分のあるのに、入らない

    そこで知りました
    猿の世界にもカーストがあって、ボス猿の身内じゃあないと入れない
    それから猿という生き物が大嫌いになりました
    入れない猿も嫌いだが、大人しく寒さに震えて入らないでいる猿も嫌い
    生死に関わるところで 喰うか喰われるかやるのなら、ともかく
    こういうくだらないところで 上下を計る
    これはなんなんだろう?と
    これもまた本能なのでしょうか?
    それとも バカザル人間の人真似なのでしょうか?
    どっちにしても大したDNAではない

    もう一個気に入ったのは
    「トランプはおしえてくれた。女郎屋の下品な強欲オーナー
    にだって国際政治がしきれることを。トランプがトランプ
    であったからではない。政治とは、もともとそのていどの
    ものなのだ。」

    人間は もともとその程度のものを、狡猾に狡猾な人々にマーケティングされ、なんだか大層なものだと思いこまされ、あの趣味が悪いしかないバッジ を偉そうにつけたものにへいこらし、
    その程度のものに好き勝手にされ、支配され、仕方ないねと ぼんやり暮らす
    そして その息抜きに 自分より比較的力がなく、弱そうな存在を軽蔑し、蔑んで 根拠のない優越感に浸る、、と
    貧し過ぎ、、。

    辺見さんの書いた言葉に触れると
    果てしない砂漠を歩き続け、一体人は居るのだろうか?と少し心細くなった時に 遠くに畑を耕している農民の姿を見つけた
    そんな気持ちになります
    なぜかホッとします
    同じ字なのに、字がね
    どこか誇らしげ
    と言うか、多分 彼の魂みたいなのが ちゃんと入ってるのでしょうね

    人間が仏像作って 魂入れなくなって もうどれくらい経つのでしょうか

    ,,,今日は思い切り シーツも何もかも、二回洗濯機回すぞと意気込んでいましたが
    どうやらお天気いまいちです

    心地よい週末を、、。



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    1. こんばんは、Junkoさん。

      イタリアでは週末は電気代が安くなるんですか。こりゃ助かります(?)ね。
      いや、旧式でいいんです。ガタンゴトンで。なんなら盥でもいいんです。進歩すればするだけ猿に逆戻りするんだから。

      人間は地球上で最低の生き物とは思いながらも、老人や子供、そして弱い立場に立つ人たちを見ると、その舌鋒も鈍ります。

      雪の中の温泉の猿は、以前銀座のどこかのギャラリーの写真展で見ました。
      みんなで仲良く入っているんだなぁと思っていたらそうじゃないんですね。
      わたしが以前聞いたか読んだかしたのでは、ボス猿とその仲間たちだけが入れる、という説ではなかった気がします。雌猿とその子供だけとか・・・

      まぁそれだけ十分な広さがあればみんなが入ればいいのに、
      狭ければ順番に入ればいいのにと思いますが、人間同様、中途半端に知恵があるために、そのような無用な分裂・差別が生じるんでしょうね。

      わたしは辺見庸の本はほとんど(小説と詩以外)読んでいますが、多大な影響を受けたというよりも、好き嫌いの傾向がとても似てるんですね(笑)

      特に2004年に脳出血で倒れて、半身麻痺になってからの彼の文章は、とても滋味があり、深み、そしてやさしさが感じられるので、それ以前の健康な時の文章よりより好きです。

      こちらも今日は雨模様でした。

      明日はシーツが風になびきますように(笑)

      メッセージをありがとう^^

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