2018年6月19日

表現と失語の間


こんな夢を見た。

大きな工場のようなところ。仕事が終わり、作業員たちは、ロッカー室や休憩室へとつづく広い廊下を歩いている。
わたしはなにか、どうしても彼らに言いたいこと、伝えたいことがあって、彼らを呼び止める。
けれどもいざ話しだそうとすると言葉が出てこない。
適当な言葉が選べないというのではない。発語できないのだ。

一言二言、語を発声したかと思うと、それ以上はもう、音になはらない呼気だけになる。

どうにかしてみなに伝えたいと焦る。近くの人に囁くように話して、それを声に出してみなに伝えてもらおうとしたがダメ。放送室で、マイクに向かって小声で話そうと試みても声が出てこない。
大きな黒板を使って、文字で伝えようとも考えたが、伝えたいことは山ほどあって、とても黒板に一文字一文字書いていくような方法では間に合わない。

皆は苦笑するでもなく、わたしの言葉を待ってくれているのだが、どうしても言葉にならない。
水を飲みながらゆっくり、少しづつ話そうとしてもやはり駄目。

万策尽き果てて、またいつかの機会にというところで夢は終わった。



これは一体何を暗示しているのだろう。
表現したいことはあるのだが、言語化の能力が追い付かないという事だろうか?

仮に自分の思いが他者に通じない事の暗喩であるなら、たとえば声を枯らして叫ぶように訴えても、道行く人はだれもこちらの存在にさえ気づかぬように、まっすぐ前を向いて歩いてゆく、といった場面の方が、より「言葉が通じない」というメタファーとしては相応しいようにも思うのだが・・・

先日「健康な障害者」ー「健康な盲人」「健康な聾唖者」というものは考えられるだろうかと書いたが、自分の内部にある表現したいという欲求が、何らかの障害によって阻まれて自由にならないなら、それは健康とは言えないだろう。
健康とは彼を取り巻く様々な環境との融和・調和だと書いたけれど、それと同時に、「自由」であること、本来自分の持っている能力を意のままに使いこなすことの出来る自由もまた、健康を構成する重要な要素ではないだろうか・・・

わたしの中に、気づかないながらも、表現され、表出されたい何らかの無形の欲求は存在しているのだろうか?ただ、わたしがそれに相当する「言葉」を持たないために、その存在に気づかないだけなのだろうか?
喩えるなら、目の前の海の中にはたくさんの魚が泳いでいるが、釣り糸を垂れていないために永遠に魚を釣り上げることはできない。この場合、釣り針、餌に相当するのが「語彙」になるだろう。

感情は、言葉と結合することによってはじめて意識の上に上るのだろうか?
しかしAという感情は必ずA´という「言葉(記号)」と結びつくという、なにか法則のようなものがあるのだろうか?
そしてまた、未だ言葉と出会っていない輪郭を持たない感情というものが、常に胸の奥底にわだかまっているのだろうか・・・


ー追記ー

言葉にするということは「定義」すること。そして「定義する」とは「限定すること」に他ならない。つまり明確な境界線を引くことだ。
けれども感情は当然ながら無限に分割できる。
ある気持ち、気分、情緒を言葉で捉える時には当然掬いきれなかった部分、フレームからはみ出した箇所への想像力を持たなければならない。


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