2018年6月26日

サイテーだ…


Hello,  Hello,  How Low ?
[ ハロー ハロー ハウ ロウ?(どのくらい最低?)]

Just Awful! 
(ひどいもんだよ サイテーだ!)

なんて電話をかけてきてくれる人なんていやしない。
こちらSuicidal FM。
孤独な人、心をひどく病んでいる君。刃物で身体に傷跡を残している君。
今夜も向精神薬の塊をビールで流し込もうと思っている君。
ぼくは君たちに何もしてあげられないし、君たちも同情なんて真っ平だろう。
誰が同情なんてするもんか!何故って君たちこそが真っ当な人間なんだから。
昔の哲学者も言っている、「苦しんでいる者だけが生きるに価する」って。
ベツニイキタイワケジャナイケド・・・

Hello,  Hello,  How Low ?


ここでぼくの好きな詩を紹介するとしよう。

天野忠さんの「ある歴史」

ロンドンシティのあのおだやかな市外電車の中に
五十歳の紳士が二人立っていた
気持ちのよい明るい夕陽に染まって
市外電車は愉快な魚のように走っていた
一九××年初秋のことで
戦争と戦争の間で
すこしばかりインフレの風向きだが
世間はまだおっとりして
石鹸の泡立ちもよく
ライラックの花は品よく匂った
その頃である。

──ねえ、君
五十歳くらいの紳士が ちっぽけな
ほこりみたいなあくびを掌でかくしながら
隣の五十歳くらいの紳士に声をかけた
──ところで あんたは
  まだ 生きていくおつもり?


おどろいたことに 怒りもせず
隣の紳士はだまっていた
長いこと前を見たまま だまっていた そして
明るいあの恥ずかしいほど明るい夕陽を見ていた
それからやっと やっとのこと 彼は呟いた
──それを 私に きくな

二人の前に坐っていたのは
小学生の私だった
顔なじみの野良犬と どこかの黒ぶちとの
あのふしぎな交歓のシーンを初めて見たときよりもそれはもっとショッキング!だった。

何故って?
それをきくほど
君は倖せかい?


Hello,  Hello,  How Low ?






2 件のコメント:

  1. >1)現代において問題にされるのは生存すること、生き延びることであって「健康」などではない。
    おれの健康をおまえが決めるな、ってのは言えます、当然、言っていい。
    でも、そんなのはだいたいなんでもあてはまるから、
    ほら、おれの幸せでも、おれの価値観でも、もうなんでも。
    下手をすれば、黙れ、って意味しかなくなってきます。

    >2)哲学を持たず、生きる意味を探らずに生きることは可能か?
    >生きることについて思索し「現実(現在)の不快さ」に気づき、その中で尚生き続づけることはどの程度可能か・・・
    その前に、哲学を持つ、ってことがどういうことなのか、
    生きる意味を探る、ってことがこれでいいのか、
    僕にはどうにも自信が持てない。
    それでいい、と言ってくれる他人にも、どうにも信頼が持てない。
    自信を持っている上に、他人にまで教えようとする、スピリチュアルとか人生哲学とか原理主義の宗教とかを見るにつけ、
    哲学を持たず、出来合いのパターンに追従することを生きる意味にするのは可能だと思います。
    それが悪いということでもなくて。
    結論として、
    哲学を持たず、生きる意味を探らずに生きることは不可能で、
    哲学を持つことも、生きる意味を探ることも不可能という、
    救われない生き方で生き続けることが可能になります。

    >3)極めて坐り心地の悪い椅子に、尚腰を下ろしていなければならない理由は何か?
    救われない生き方で生き続けることだけが可能です。
    生まれてから死ぬまでの、生の外側に信仰を持つ人なら別の答があるのかもしれません。

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    1. こんばんは、青梗菜さん。

      これはひとつ前の「追記」に関するコメントですね。別に構いませんよ^^

      1)わたしは「病んでいる」とされている。別に人がそう言わなくても生き辛さは常に感じている。ここではわたしにとって健康とはいったいなにか?と考え始めたのですが、どうも世の中では「健康」ということ以前(以上)に「生存すること」「生きていること」の方が大事である、という風に考えているのではないかと感じたのです。
      それはわたしが知っている人たちの多くが、とにかく今日一日を生き延びることに全てのエネルギーを使い果たしている人たちだから、なのかもしれませんが。

      大事なのは今日を、今を生き延びること、サバイヴすることであって、「健康」云々などというのはあくまでも金と暇のある人たちの特権的なものではないかともふと考えたのです。

      こういう抽象的な命題はアプローチの角度によってさまざまに姿を変えるので、
      健康という事にしても、狂気と正気、正常と異常などと同様、考えれば考えるほど、それはメビウスの輪のように表裏一体で分離不能な概念ではないかと思えるようになってきました。

      2)哲学を持つというのは、特定の思想の下に物を考え、捉えるということではなく、どこまでも問い続けること、それでいいのか?それが結論か?と更にさらに追及してゆくこと、そんな意味で使っています。
      わたしという存在、そしてその人生は一回限りのもの。だから、人と同じ答えが当て嵌まるとは思えません。
      それにわたしは考えることが好きですから、人に代わってわたしの人生について、わたしの幸・不幸について考えてもらう必要を認めません。

      ニーチェだったか忘れましたが、「わたしを信じるなら、わたしの後を追うな」というようなことを言っていたと思います。

      >救われない生き方で生き続けることが可能になります。

      大局的に見れば人間は救われない存在でしょう。
      だからこそその代わりに文学があり、哲学があり、芸術があり宗教があるのだと思います。せめてもの人生の慰めです。

      3)>救われない生き方で生き続けることだけが可能です。

      居心地が悪ければ、椅子を蹴立てて退場する自由も人間にはあります。

      ピント外れだったらすみません。

      コメントをどうもありがとうございました。


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