最近はツイッターに滅多に目を通さない。
久し振りに覗いたある読書好きの投稿を読んで意外の感を受けた。
そこにはこう書かれていた。
タイムラインの読書好きが例外なく称賛する作家の名前を聞くたび、まるで僕だけがうっかりその人に会いそびれてしまったような寂しさを覚え、いつか必ずお目にかかります、と声をかける気持ちで、まだ読んでいない本の背表紙を、そこに書かれたキニャールという名前を、しばらく眺めている。
わたしは決して読書家ではないが、自分と同じように本の好きな人たちが、「例外なく称賛する作家」の作品を読んでいないことをまるで恥ずかしいことのように感じる感性が、どうしても理解できない。
何故みながいいというものは自分にとってもいいものだと思うのだろう?
この人は、人と同じものが好きであることを恥かしいとは思わないのだろうか?
読んでいるこちらの方が顔が赤らむ。
かつてフロイトは「小さな違いのナルシシズム」といった。
人と異なること。できれば大幅にはみ出していること。そこにわたしのナルシシズムは潜んでいるようだ。
Kさんのページも覗いてみた。
カサヴェテスが死に、シネ・ヴィヴァンが閉館し、父が逝った。青山ブックセンター六本木店が今月末に閉店し、9月に渋谷のメアリー・ジェーンも店を畳む。 記憶がある限り、形が消えてもそれは本質的に消えない。ただ、人は有限だ。 人が消え、人に属する記憶も消えたとき、すべては潰えてしまう。
そこにあったものが消え、目の前に居た人がいなくなる。しかし過去の記憶は残る。
だからこそ、そこに「記憶」「思い出」があるからこそ、それらは「本質的な意味で消滅」しているのだ。
そこに苦しみがある。痛みがある。記憶の中にありながら現実には存在しない。瞼の内側と外側の世界の齟齬(不一致)、背馳・・・そんな分裂した状態にどうして人のこころが耐えられるだろう?
Kさんが書いているように、記憶が消えた時、物も、ひとも、本当に消えるのだ。
そして記憶を消すためには、記憶の主体が消えなければならない。
先日久しぶりにコンビニに行った。レジの若い女性からお釣りを受け取るときに、
彼女の手首にケロイドのような傷跡が見えた。
わたしは50代の中年男性だが、自傷やオーバードースをするという感覚が解る気がする。実際に自分の体を傷つけたことはないが、わたしのアイデンティティは自分を罵ることで保たれているところがある。
言葉で自分を傷つけていると、なんとなく落ち着くような気分になる。
自分を最底辺の、「人外」の存在と規定することで、生きるという責任から逃れようとしているのかもしれない。
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