まだたくさん残っていると思っていた睡眠剤が無くなっている。
1シートに10錠。1日1錠。2錠づつ切り取って、所定の場所に置いている。
もし無くなりそうであれば、あと1シートになった時点で気付くはず。
それが今日いきなりなくなっている。ついに呆けたのだろうか・・・
6月になった。今年はまだ一度も精神科に行っていない。ここから駅まで、今のわたしの脚で15分ほど、電車で2駅、そこから歩いて約10分。
その行程が大変だということもあるが、どちらかというと、もう精神科はいいよ、という気持ちの方が強い。
そんなことはざらにあることだと言われるかもしれないが、30歳の時から24年間、
それこそ大勢の精神科医と会ってきた。けれども未だこれと言った確定した診断名すらない。状態が改善されるわけでもない。
精神科医は信用できないというよりも、そもそもわたしに精神科が必要なのか、という根本的な疑問に突き当たっている。
過去に何度か触れたことがあるけれど、わたしの主訴は「人と良好な人間関係が築けないこと」。それによって孤立し、孤独感、抑うつ状態が生じる。その「二次障害」である「うつ」によって、わたしは障害者手帳を所持している。
しかし、主たる原因が解消されない限り、二次的な症状が無くなることはない。そして四半世紀をかけても、わたしの「問題」は解消されるどころか、そもそもなにが「問題」なのかの糸口さえ摑むことはできなかった。
「人間関係の構築」が上手くいかないのは、精神科に日参することで改善されるものではないと早々と見切りをつけ。あくまで二次障害の緩和のために通っていた。けれども、鬱状態は年々悪化するばかり。最早わたしは精神科に通院する意味というものを見失っている。
とはいえ、最低限の薬は手放せない。
(手放せない?いったい今飲んでいる薬がどのように利いているのかさえ解らないのに?)
昨年末、最後の受診の時に主治医が言った一言が、未だに小さな棘のように抜けずにいる。
「人と良好な関係を維持することができない」わたしが、これまで何度医者を替えてきたかは容易に想像できるだろう。過去に出会った20人近い医師の中で、明らかに相性が悪いというケースは稀だった。けれどもわたしの場合は、ちょっとした行き違いが致命傷になる。
今回のケースも、ドクターはわたしが受け取ったような意味で言ったつもりは全くなかったのかもしれない。けれどもそれを確かめる術はないし、仮にそれが誤解であったとしても、わたしが「疑った」という事実はドクターの心にしこりを残すだろう。
今処方されているくらいの薬なら、行きつけの内科でも出してくれるかもしれない。
勿論精神科では自立支援を使っているので向精神薬は無料だが、内科で同じ薬を処方してくれても、その分の支払いは必要になる。
仮に月に1000円ほどだとしても、それは大きい。けれどももう精神科は・・・現に、10年前にこちらに越して来た時、今の主治医にかかる前に6か所の精神科に足を運んでいる。現在の主治医と8年(?)ほど続いているのは自分でも驚くくらいだ。
ただ薬の処方をしてもらうだけの医師を探すにしても、どうしたらいい?
そもそもわたしには精神科医が必要であるのかないのか?それは本人次第なのか?それを誰に訊けばいい?
わたしはもはや都の精神保健センターの精神保健福祉士や、保健所の保健師と言った人たちを信用できないのだから。
わたしのブログには
「孤独な精神障害者、引きこもりの内面の記録・・・」と書かれている。しかしわたしは果たして本当に精神障害者なのだろうか?
畢竟ただの異形の者ではないのか?
返信削除私のNicoさんの印象の一つに、積極的にそして意識的に他者に“与える”と云うことをしない人、と云うのがあります。
ネットを通してのこうした“表現”は他者に“与えている”と云えますが、その動機は求め心から、なのだと思います。
心は使うほどに育つ、と云うのが私の“主張”です。
絵画や写真、そして言葉や文章へのこだわりを発信する事を、受け身的(求め心)にではなく能動的(与え心)に行うと云う「意識」を持つことが私には“くすり”になるように思うのですが。
こんばんは、yy8さん。
削除率直な感想をありがとうございます。
言葉を弄ぶようになってしまうかもしれませんが、(それは悪い癖でもあるのでしょうが)積極的に与えるには先ず「与えるもの」を持っていなければならないのではないか、という気がします。それは有形無形にかかわらずです。
同時にわたしは拒絶されること、またはさほど喜ばれてはいないのではないかという「怖れ」があります。
与えるにせよ求めるにせよ、わたしはとても臆病です。それは何度も何度も黙殺され続け、拒絶され続けてきた経験からです。
それでも尚、という人がたったひとりだけ、わたしの親友としてかつていました。
このブログも究極的には自己のなぐさめのためにあります。
誰かがわたしの言葉、わたしが好きなアートや音楽をたまたま気に入ってくれたらうれしい。
けれども、それは「受け手」の自由です。
上手く言えません、そして繰り返しになりますが、わたしは少なくとも自分の意識では、人に与え得る何物も持っていない存在だと思っています。
それは偽りのない気持ちです。
☆ ご返事不要ですが、私のブログに書きこんでいただいてもいいです。
返信削除yy8さんのブログはどこですか?「アムチュー」でしたっけ?
削除yy8さん。メッセージ読みました。了解しました。
削除わざわざありがとうございます。
僕は、Takeoさんとは、
返信削除良好な関係を維持しているつもりでいますよ!
僕の、一方的な思い込みかもしれないけど、
それはいいんだ、確かめるすべなんてない。
維持ってのは、将来に関わるから、
今のところ、って留保がつくんだろうけど。
Takeoさんは、書き表しにくいことも、巧みに書けてますやん。
僕なんかより、よほど。
だから、コミュ力はあるんだと思う。
思いつきで申し訳ないけれど、
もしかして、話し言葉を忘れているのかもよ!
くだらないツイートのくだらなさは、
テキストでコミュニケートするまでもない話し言葉が、
テキストになっているせいだと思ったりします。
話し言葉だから、ただちに消え失せればいいのに、
エクリチュールは、反復可能性があるんだ。
でね、Takeoさんは、頭の中が、
テキストコミュニケーションに最適化された日本語だけになっているのではないかと、
ふと思ったわけです。
読み書きの日本語しか使えなくなっている。
対面コミュニケーションの日本語は、双方向性に最適化されているから、
同じ日本語だけど、書き言葉とはかなり違う言語だと思う。
思考する言語というか、言語で思考するというか、
その言語が、書き言葉オンリーになってるという思いつきです。
こんばんは、青梗菜さん。
削除>思いつきで申し訳ないけれど、
もしかして、話し言葉を忘れているのかもよ!
話し言葉か。
高校時代の友人が就職したときに、「お前(=わたし)と付き合っていたお蔭で、言葉遣い(=敬語)で怒られることが無くて助かってるよ」と言われたことがあります。まぁ半分は、わたしの堅苦しい話し方に対する皮肉めかした冗談ではあったんだろうけど。
小学校から高校までは、「クラスの人気者」・・・ではなかったけど、「このクラスで一番面白い奴」といえば必ずわたしの名前が上がっていました。
きっと真面目な顔して冗談を言っていたからでしょう。
(そのような評価をしたのは大体担任の先生でした。)
そういうことで、昔から「書き言葉で話していた」ようなところはあります。(苦笑)
厳密に言えば、「忘れている」というよりも、話し言葉を「知らない」のかもしれません。
友だちと呼べるのは、彼らが結婚して家庭を持つまでずっと高校時代の仲間だけだったし、それ以降、友だちはいないし。
でもこの指摘は当たっていると思います。
>Takeoさんは、頭の中が、
テキストコミュニケーションに最適化された日本語だけになっているのではないかと、
ふと思ったわけです。
読み書きの日本語しか使えなくなっている。
これは微妙ですね。確かにわたしの言葉イコール書き言葉ではあるけれど、それを使って円滑なコミュニケーションが成立しているとはいい難い。
このブログを読み、コメントを残してくれる人は本当に稀有な例だと思います。
それが三人もいるというのは驚きです。
とはいえ、先ほどの青梗菜さんの表現を借りれば、
>「今のところ、って留保がつく」存在ではあるのだけど。
よほど愛し合ったカップル(同性同志であっても)や親子・・・それ以外の関係はいつまでも暫定政権でしかないのでしょう。その当たり前のことが、わたしにはいつも「不安」です。いつその「暫定政権」が終わるのか?と、いつも怯えているところがあります。
何故って、わたしは「へんなやつ」だから。(苦笑)
とても考えさせられるコメントをどうもありがとうございます。
PS.
上の返事を見てもわかるように、「です・ます」と「だよね・でしょう?」と入り混じってるでしょう?yy8さんは年上なので、終始敬語を使いますが、青梗菜さんやJunkoさんにはどう話したらいいのかわからない。返事のないようよりも口調に気を遣っています。くだけられないし、ラフになることに抵抗もある。厄介なやつです(苦笑)