2018年6月2日

遠い声、街の音


混んでいて、吊革にすがっているとこんな言葉が耳に入ってきた。「おとうちゃん、今晩のおかずどうしよう。厚揚げの残りあるし、あれ炙って、生姜醤油で食べるか・・・」

これは山田稔のエッセイ『あ・ぷろぽ』の中に出てきた様々な言葉の中でも、特に印象に残っているものだ。
彼が「天野さんを偲ぶ会」に出席した帰りのバスの中で偶然耳にした言葉である。


先日、ツイッターでも素敵なことばを見つけた。

走り抜けてゆく電動自転車の後ろに座っていた男の子が「いい匂いがしてきた、いい匂いがしてきたよ」と嬉しそうに2回言うのを確かに聞いた。前から来た女の子が何かを両腕で抱きしめながら「かりんとう、かりんとう」と呟いていた。大切な言葉のように何度も。猫の頭は砂まみれ。払った手も砂まみれ。

投稿したのはOさんという男性(?)で、プロフィール欄にはなにも書かれていない。
本好きの人らしい。

こういう言葉を読んでいると、とても不思議な感覚にとらわれる。
それは、今でも町ではこんなやりとりが交わされているのだろうか?という驚きに近い。
驚きでもあり、また、半信半疑でもある。

山田さんのエッセイが書かれたのは2000年初頭だから、もうかなり前と言っていい。
Oさんの投稿はごく最近とはいえ、これが「創作」でないとは言えない。

先日母がバス停で待っていたら、小さな男の子と若いお母さんが隣に並んでいて、お母さんが「今日の晩御飯何にしようか?」と訊いたら、男の子は「からあげー!」と元気に答えたという。

わたしがたまに外に出ても、こんなやりとりは久しく耳にしたことがない。
最近は滅多に電車に乗ることも無くなったが、電車の中ではほとんどの乗客が一心にスマホを眺めていて、音を立てるのも憚られるような雰囲気さえ漂っている。実際、赤ん坊の泣き声がうるさいと文句を言われることさえある時代だ。
人はみな、外では余計なおしゃべりはしないもののようにわたしには感じられていた。

電車で、スマホをいじっている人の隣に座れば、覗かれるのを厭がるように反対側にからだをズラす人も多い。もっとも今隣に腰を下ろした人も、すぐさまスマホを取りだすのだが・・・

今や街中は、個々に閉ざされた無数の「私的空間」が犇き合っている。
そんな中、夕食なににしようかなどという「あけっぴろげな」話ができるのだろうかというのがわたしの疑問なのだ。

先日、町に出るにはどうしたらいいか、誰に尋ねたらいいのだろう、と書いた。
それは空間的な場所ー町のことではなく、上のような会話が聞かれる場所、人と人とが笑顔で言葉を交わし合っている場所のことを言っているのだ。

喫茶店やレストラン、食堂で向かい合って話していても、スマホを傍らに置き、着信音が鳴ればただちに反応し、「あ!ゴメンね」と、目の前の相手に会話の中断を告げなければならないような殺伐とした光景が存在しない場所のことだ。

確かに運がよければ、ひょっとしたらどこかで、人間の声、人間が人間と向き合って、機械の仲立ちなしに、直におしゃべりしている場面を見ることができるかもしれない。けれどもそれは最早日常の中のありきたりの風景ではなく、出会えたことが幸運だったと言えるような貴重な、稀な、遠き日の残照ではあるのだろう。

ちなみに『あ・ぷろぽ』で、興味を引いた言葉をもう一つ挙げるとすれば、

毛沢東がいったと言われる、作家が創造的でいられる三つの条件について。

一、若いこと、二、貧しいこと、三、無名であること、

混み合えるバスの中での夕食の相談は、毛沢東語録に匹敵するほど、わたしには新鮮で感動に満ちたものだった。





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