2018年6月28日

手の温もり、こころの温もり


もう20年近く前の雑誌を眺めていたら、小さなコラムが目に留まった。
印をつけていたので、はじめて読んだ当時に印象に残っていたものだろうが、すっかり忘れていた。
読み返してみて、やはりいいなと思うので、ここで紹介しようと思う。

書いたのはベトナム在住の当時47歳の日本人女性。




先日、ハノイ市中心街の横断歩道を渡ろうとした時、見知らぬおばあさんが自分の右手を、あたかもいつも身近にいる人の手を借りるように、とても自然に私の左手に伸ばし軽くつかみました。
 無言でしたが、一緒に道路を横断して欲しいという思いが伝わり、共に渡り終えると、何事もなかったように私から離れていきました。
 ここ数年、ハノイではオートバイや車が驚くほど増え、交通事故もよく目にします。
信号は増えても、市民の交通マナーは徹底していません。
 そんな中で、あの出来事に教えられたのは「豊かさ」でした。お年寄りが誰に対しても「手助けして欲しい」という意思を、言葉を発せずとも伝えられる。頼む側に頼むという意識がない分、受ける側にも構えがない。これは社会がお年寄りを受け容れる器を広く持っているから。「豊かさ」とはこういうことかと感じました。
 頼む相手は誰でもよかったのです。だれもが手を貸す心構えでいるという「暗黙の了解」が社会に存在しているからこそ、あのお年寄りは自然に手が出たのでしょう。
 いつか自分が年を取った時、日本は何も意識せずに隣に立つ人の手を握れる社会だろうか、と思いながらその時の光景を思い出しています。



もしわたしが信号で待っていて、お年寄りが、或いは目の、身体の不自由な人が、突然何も言わずに手を握ってきたら、きっとうれしく感じるだろう。
年齢や性別を問わず、このようにされるということは、信頼されているということだと思うからだ。人間不信の塊のような自分であるだけに、ただ道路を渡るためだけであっても、わたしを信用してくれたことはとても大きな喜びだろう。

一言も言葉を交わさなくとも、人と手を握るということは自然と心を潤すものだ。
手を取って一緒に横断歩道を渡ってあげたこの筆者も素敵だが、無防備に人を信じ、見知らぬ人の手を取るこのおばあさんは、何とも言えず素敵で、チャーミングな女性じゃないか。

残念ながら、当時から約20年を閲したこの国は、そういう親切で寛容な「やさしい国」になることはできなかった。人びとは人と手を携えるよりも、プラスティックの板と手を携える選択をした。

しかし、いまでも、見知らぬ人に黙って手を差し出せるような心の温もりを、日本が持ち得なかった豊かさを持っている土地が、社会が、どこかにあると思いたい。

衰えていること、病んでいること、不自由であること、ままならないこと、すなわち人間であるということを詫びる必要のある社会など、あってはならないのだ・・・








6 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    すごく良くわかります
    前にどこかで書いたから読んでくださってるかもしれないけど、
    昔 高山で横断歩道を渡り兼ねてるお婆さんが目に留まって、車がビュンビュン行き交ってるわけ
    で、側に寄って 一緒に渡りましょう と言ったら ギョッとした顔をされました
    一緒に渡った後も、何か解せない表情で、
    お礼を言われたいというのではなく、ただ寂しい社会だなあと思いました
    でも今の日本って そうやって他人に怯えながら暮らしているくせに
    かと思うとネットで知り合った男の人に車に平気で乗って 殺されちゃったりしてる
    無防御という在り方が ちょっと変だなと
    やっぱり 動物としての本能が狂ってるのかな、

    人を見たら泥棒と思え と言うのは、私の人の見方から一番遠いところにあるものです
    多分 下町育ちだったのと、私が小さい頃 両親のやってたお店にいろんな地方からやってきたお兄さんたちが見習いみたいな形で働きに来てて、で、うちに住んでた人もいて、かわいがってもらってたからかもしれないけれど、、

    そう言う赤の他人と家族を区分ける壁がものすごく低い
    、、人間嫌い。って言い切ってるのに、少し変よね ははは

    でね
    私は家族からの思いやりや友人からのお心遣いよりも、そう言う赤の他人とのまさに「袖すり合うも多生の縁」のような、一回きりの それも一瞬の触れ合いの方に、より深い何かを感じて、より心打たれたりします

    と言うわけで、イタリア、とりわけローマにはまだあります
    こう言うの、、。
    だから、数々の不便 不都合顧みず、いつまでもこっちにいるのかもしれません 笑

    この間 ふと思ったんだけど
    Takeoさんは、海外の社会だったら、まあ、醜さはこちらにもあるとしても、多分 もっと馴染めて、棲息し易っかたのではないかと思います。
    そういう私も日本の社会 苦手です、いろいろと。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      まぁこういう国だからね。人と接する際の振る舞い方も、どうすればいいのかわからないというのは致し方ないのかもしれません。

      先日のネット上で知り合った男性に殺された事件は、あまり一般化は出来ないと思います。
      今の社会はやはり他人を警戒する社会であり、他人と深く関わりたくないひとたちで出来ているように思います。

      先日Junkoさんのところで、「気をつけて論争」がありましたよね(笑)
      気を付けなくてもいいよって言ったのはわたしひとりだったような(笑)
      身の危険がまったくないなんてことは何処へ行ってもないのだから、それなら、仮に怪我をしたって、自分の信念に従って生きたい=困っている人に親切にしたい、というJunkoさんの姿勢に全面的に共感します。

      そうだね。町なかでお互いに監視しあい、警戒し合って生きていて、逆に息苦しくないですか?と思うよね。

      親切云々って御大層な道徳じゃないんだよね。自然と隣に立っている人の手を握る。一緒に渡る。それだけのことじゃないのかな?

      わたしも多分アジアも含めて、この国以外ならもっと生き易かっただろうなと思います(苦笑)

      メッセージをどうもありがとう。

      あまり送信の調子が良くないようだけど、今のところ、全部ちゃんと届いているようです^^

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  2. あ、わかった
    前は コメント承りました。みたいなメッセージが入ったのに、昨日今日と 入らない
    だから流れていないのだと思うのです

    で、このコメントの前に流したコメント 届いてますか?

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    1. 届いています。
      直ぐに反映されないのはわたしが公開しなければならないからで、時差があると思いますが、一応コピーは取っておいてください。
      せっかく書いたのに届かないのではこちらも残念だから。


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  3. >残念ながら、当時から約20年を閲したこの国は、そういう親切で寛容な「やさしい国」になることはできなかった。人びとは人と手を携えるよりも、プラスティックの板と手を携える選択をした。
    国なんて、幻想みたいなものの優しさの量は、
    もう言ってもしかたがないじゃん。
    他人の優しさなんて、当てにならないものを、
    多いとか、少ないとか案ずるよりも、
    自分の優しさを増やしていけばいいのではないかな?

    スマホは関係ない、と思うのですよ。
    スマホのせいではなくて、
    子供と関わらない、年寄りと関わらない、
    他人と関わらない、自分の身体のせいだと思うのです。

    うちの子が小さい頃はね、
    こんな僕にでも、よその小さい子供が寄ってきたし、
    それは理屈ではないのだろうけど、
    理屈を言えば、子供とコミュニケートする中で、
    知識を増やし、経験を増やし、
    優しさを体現できる身体になっていたのでしょう。
    一時的にでもね。

    親とコミュニケートする中で、
    年寄りとコミュニケートできる自分になれるのではないかな。

    甘っちょろいかな。
    少し離れたところで、見守っている誰かがいる、と考えるのは。
    でもね、自分が、その誰かになったら、
    見守っている誰かがいると思えるようになるんだよ。

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    1. 再びこんばんは、青梗菜さん。

      >国なんて、幻想みたいなものの優しさの量は、
      もう言ってもしかたがないじゃん。

      自信を持って言えるわけじゃないけど、たとえばフランスやアメリカなんかだと、親切な人もいれば、全然人のことなんか構っちゃいないような人もいる。
      隣の人が親切かどうかは運みたいなものかもしれないけど、
      日本人て、極端に言えば「個人」というものが存在しない国のように思える。
      だから、一を知れば十が解ってしまうような国のように感じるのです。

      少なくともわたしに関して言えば、ひとりが親切でないと、ああこの国は冷たい国なんだなって思っちゃうところがある。
      だから「或るひとり」=「国の代表」って感じかな(苦笑)

      >子供と関わらない、年寄りと関わらない、
      他人と関わらない、自分の身体のせいだと思うのです。

      うん。でも現実にはそんな風に老若男女と、仕事抜きで関われる人ってどういう人だろう?いや、仕事を介してであっても。

      >理屈を言えば、子供とコミュニケートする中で、
      知識を増やし、経験を増やし、
      優しさを体現できる身体になっていたのでしょう。
      一時的にでもね。

      それはわかります。
      習うより慣れろだからね。
      でもだとすると学校の先生なんて、みんな優しいはずのように思えるんだけど、何が違うんだろう?-これは反論ではなく、「接してゆけば仲良くなれる」と思うからこそ、不思議に思えるのです。
      まぁわたしは実質的には大人じゃないし、親でもないからまったく例によってピント外れかも知れないけど。

      >少し離れたところで、見守っている誰かがいる、と考えるのは。
      でもね、自分が、その誰かになったら、
      見守っている誰かがいると思えるようになるんだよ。

      甘っちょろいとは思わないし、そう思うけど、
      やっぱりわたしにはこれは「詩」かなという感じです。

      率直なコメントをどうもありがとうございます^^










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