「家守奇譚」、三分の二ほど読みました。十四話の中の最初の「サルスベリ」の冒頭を書き写します。 鳥の落とし物から、時折見慣れぬ洋風の草も芽吹くが、元々は和風の庭だ。手入れをしないので、シュロ、クスノキ、キンモクセイ、サツキにサザンカ、タイサンボク、槇も榊も柴、杉も、みんな伸び放題で栄耀栄華を極めている。前の家主の時代には、・・ 小説に、純文学・大衆小説という区別があるようですが、冒険物・恋愛物・推理・探偵・ホラーや社会物などと云った区分けもあって、それらに接する際の読み方(心得)もそれぞれにふさわしい“姿勢”があるように思います。 この本は、生き方を考えるためのものではなく、ストーリを楽しむものでもないですね。 それでは、この本にはどのような姿勢で臨めばいいのかとしばし考えることになってしまいました。 Nicoさんは、考えるのではなく感じればいいのだと、よく言っていましたがこの本にはそうするのが“正しい姿勢”なんだと思えました。 ただし、何を感じているのかが私には言葉になって表れないのです。その因の一つに無知、があります。 民間伝承とか、動植物に付いての知識とか、知っていないと作者の気持ちが分からないですね。 でも、作者のその立ち位置はうすぼんやりとではありますが、分かるような、見えるような感じを持っています。 「境界」って、なんなんだろう?
こんばんはyy8さん。わたしはもともと読書家ではありませんし、どちらかというと、言葉よりも感覚を重視するようなところがあると思うので、様々なジャンルの小説に対する接し方はわたしにはわかりません。でも読んでいて、「何か」を感じて、それが心地好いものなら読んでよかったのだと思います。「この一行がすきだなぁ」だけでもいいと思います。何を感じているかは、すぐにはわからなくても、忘れたころに思い出す、「ああ、あの時感じていたのはきっとこういう感覚だったんだ」といつか追体験できれば、それは優れた読書体験だったと言えるのではないでしょうか?正しい鑑賞法なんてありませんよ。愉しめればいいんです。^^「境界」ってなんのことですか?コメントをありがとうございます^^
「家守奇譚」、三分の二ほど読みました。
返信削除十四話の中の最初の「サルスベリ」の冒頭を書き写します。
鳥の落とし物から、時折見慣れぬ洋風の草も芽吹くが、元々は和風の庭だ。手入れをしないので、シュロ、クスノキ、キンモクセイ、サツキにサザンカ、タイサンボク、槇も榊も柴、杉も、みんな伸び放題で栄耀栄華を極めている。前の家主の時代には、・・
小説に、純文学・大衆小説という区別があるようですが、冒険物・恋愛物・推理・探偵・ホラーや社会物などと云った区分けもあって、それらに接する際の読み方(心得)もそれぞれにふさわしい“姿勢”があるように思います。
この本は、生き方を考えるためのものではなく、ストーリを楽しむものでもないですね。
それでは、この本にはどのような姿勢で臨めばいいのかとしばし考えることになってしまいました。
Nicoさんは、考えるのではなく感じればいいのだと、よく言っていましたがこの本にはそうするのが“正しい姿勢”なんだと思えました。
ただし、何を感じているのかが私には言葉になって表れないのです。その因の一つに無知、があります。
民間伝承とか、動植物に付いての知識とか、知っていないと作者の気持ちが分からないですね。
でも、作者のその立ち位置はうすぼんやりとではありますが、分かるような、見えるような感じを持っています。
「境界」って、なんなんだろう?
こんばんはyy8さん。
削除わたしはもともと読書家ではありませんし、どちらかというと、言葉よりも感覚を重視するようなところがあると思うので、様々なジャンルの小説に対する接し方はわたしにはわかりません。でも読んでいて、「何か」を感じて、それが心地好いものなら読んでよかったのだと思います。
「この一行がすきだなぁ」だけでもいいと思います。
何を感じているかは、すぐにはわからなくても、忘れたころに思い出す、「ああ、あの時感じていたのはきっとこういう感覚だったんだ」といつか追体験できれば、それは優れた読書体験だったと言えるのではないでしょうか?
正しい鑑賞法なんてありませんよ。愉しめればいいんです。^^
「境界」ってなんのことですか?
コメントをありがとうございます^^