昔好きだったミュージシャンのサポート・バンドのメンバーが、2008年に亡くなっていることを知った。You Tubeで、そのミュージシャンのライブの模様を久しぶりに視たら、亡くなったメンバーについてコメントしている人がいて、こんなことが書かれていた。
「地上での死は天国での誕生日」" Happy Birthday in Heaven "
矢川澄子は、たとえ幼くしてその命が病に奪われても、母の手の中で、愛に包まれての死は祝福である、というようなことを書いていた。
矢川はまた、「鬼は外」「福は内」、「お家にこそ福はある」とも書いている。
そとでは汚く乱暴な子供たちがいじめるけれど、お家には分別のある大人がいて、壊れやすいあなたを守ってくれるのだと。
わたしは「お悔み」というものを言えない。
特別親しいわけでもない人の死についてであっても、内心の伴わない口先だけの「お悔み」をどうしても口にすることができない。
まして愛する者や、その死に深い悲しみを感じる場合には、最早わたしのからだの中にはひと摑みの「ことば」も残されてはいない。
嵐のように吹き荒れる悲しみは、わたしの中の言葉という言葉を奪い去って行ったのだ。
死の悲しみに釣り合うような言葉は存在しない。死について言葉を弄することが、死を、そして言葉を軽んじることになる。
わたしがフェイスブックから距離を置くようになったのは今に始まったことではなく、
2011年に始めた当初から出たり入ったりを繰り返している。
昨年の11月から遠ざかっている間接的な、しかし大きな理由の一つは、皆が言葉を使わなくなったことだ。
決定的だったのは、昨年暮れにヨーロッパのどこかで起きたテロで、死傷者が出たとき、わたしの友達のひとりが、横一列にズラリと「泣き顔」の顔文字(というのかマークというのか)が並んでいる投稿にLike(=いいね)を押していたことだった。
最早フェイスブックでは、「カナシイ」という言葉さえ用いずに、泣き顔の絵で代用するまでになっていることに・・・いやそれ以上に、人の死に対するに、顔文字を以て応えるという非礼、鈍感さ冷酷さにショックを受けた。
「悲しい」にとどまらず「ありがとう」でも「やったね!」でも、ひとの気持ちは最早文字で表すよりも「さまざまな顔の記号」で伝える割合の方が多くなっているように見えた。
言葉は、軽んじられ、更には顧みられることすらなくなっていた。
ツイッターではフェイスブックに見られたような顔文字や記号は見たことがない。
しかし140文字という制限の中で「なにがしかものを言う」時、当然そこには思索を深めてゆく広さも深さもない以上、放たれた言葉は、所詮切り売りの、思索の跡を持たず、深化されることのないままに、はらはらと主体から剥離した、発信者としての責任を負うことのない無責任な、アノニムな言葉の断片になる。
文脈とは、思索する主体=「わたし」が思索の対象と共にへ巡ってきた思惟と思考の軌跡である。
俗に「仏つくって魂入れず」という。その魂の抜けた、形だけはそれらしい立像のみが居並んでいるのがツイッターのタイムラインではないのか?
わたしはなにを言いたいのか?
ただ、幼くして親と僭称する者たちに命を絶たれた少女に対して、SNSごときで喋々することを止めよ!ただ黙せ、といいたかったのだ・・・
「親になることはやさしい、けれども親であることは難しい」
ー 山本有三『波』
Ciao Takeoさん
返信削除これ読んでみてください
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html
親でなることはやさしい、けれども親であることは難しい
私は あえて 親を「人間」と入れ替えてみます
真っ当な人間であれば、親であることを意識しないでも自ずと子供は育つと思います
再びこんばんは、Junkoさん。
削除こちらは先程の絵の日没が夜明けになるほどの時間です。
ボーヴォワールは『第二の性』で、有名な「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」と書いていますね。
今の時代、真っ当であることを意識せずに真っ当であることが可能かどうか、わたしはちょっと懐疑的です。つまりホッファーの言った自己認識と同じで、「ありのまま」「無意識に」ではなく、意識的になる必要があるように思うのです。
つまり狂った時代、狂った国に生きているわたしたちは、自己に対して意識的にならなければいけないと思うのです。
Junkoさんの意見は、正論だし、わたしもそうあればいいとは思いますが、それを許さない時代になっていると思います。
ただ、その「あるべき親像」をはき違えるから、加藤君兄弟のような悲劇が後を絶たないのでしょう。
ここまで書いて、ふと太宰の「親は無くても子は育つというが、家の場合、親があるから子が育たぬのだ」という言葉を思い出しました。
今回5歳の女の子が虐待死したことを述べたのですが、わたしはそれをインターネット上でとやかく言うことが耐えられないのです。
Junkoさんの主張には賛成です。けれども、「今の日本は、正常でいられる方が異常だ」という主張にわたしは与せざるを得ません。
敢えて「異見」を述べましたが、反論、補足があれば気軽に送ってください。
追伸、
漱石先生、読みましたが、何処がポイントでしょうか?
不悉
ここで、一冊、挙げるとしたなら、
返信削除姫野カオルコ「謎の毒親」かな。
インドの経済成長の影ではびこる腐敗や犯罪などの巨大な闇を描く(嘘ですw。んなわけない)。
今どきの作家だもん。
低俗で、陳腐だってことは請け合うけどね。
僕は、ていねいなテキストコミュニケーションの、お手本だと思ってる。
例えば、ゴッホについては、みんなおしゃべりよね。
曲線が表す不安だとか、樹が孤独だとか、嘘つけよっw。
でも、例えば、ハンマースホイを観ても黙ってしまう。
語れないから絵として表現するのであって、
言語の不自由さを絵画は飛び越える。
だから、黙って固まってもそれで正解なんだけど。
映画も、音楽も、なんだって同じ。
自分で選べないだけなんだわ。
そこで、僕は、姫野カオルコ「謎の毒親」を選ぶ。
誇らしく。
こんばんは、青梗菜さん。
削除姫野カオルコ?ご存知のようにわたしは二十世紀に生きているので、名前くらいは聞いたことはあるような気がしますが・・・漫画家でしたっけ?
わたしは昨年、7年ぶりに、フェイスブックの友人と展覧会に行きました。
それ以前、友だちがいたときに、毎週のようにどこかの美術館に行っていたとき、どの程度絵を観ながら話していたかなと思い出してみると、なんてことない印象だったけど、「この色がいいよね」なんて言い合える相手がいることの大事さを改めて思います。その証拠に、友人に去られてから、暫くは一人で美術館にも足を運んでいましたが、そのうちにそれもしなくなり、今に至っています。
ハンマースホイは見ていませんが、おそらく同じような室内のモチーフのヴァリエーションを少し退屈に思うかもしれません。屋外の絵もありますが、特別好きな画家とは言えませんね。
わたしが「毒親」という単語をはじめて見たのは昨年の暮れにブログ村に登録したときにいくつかのブログのタイトルにこの言葉が使われていました。
「毒親」というのがあたらしい概念なのか、或いは過去の概念の言い換えなのかわかりませんが、「最近よく耳にする言葉」というのには古臭いわたしにはどうしても抵抗があります(苦笑)
ピントの合ってない返答ですみません。
よい週末を過ごしてください。
返信削除Ciao Takeoさん
確かにそうかもね
動物は本能に忠実に動きます
本能ってのは、自然の、つまり生態系の流れみたいなものと密接にリンクしてると思うので、大きな間違いって侵さないもので、(まあ時々 階段踏み外したり、木から落ちたりしますが、苦笑) 何というか、、 本能は バランスを内蔵してますから、本能の中である限り、真っ当で居られる
人間の場合、思い上がって 本能を忘れ、本能から大きく逸脱して、おまけに意識する という事も忘れた
人間に与えられた「考える」という事、しかしながら思考はある意味御さなければいけないと思うのだけど、
本能不在、意識不在、御する力もない
こうなるともはやただの骨と皮を被った脱け殻みたいなものが フラフラ歩いてるようなもんで、始末に負えないし、ある意味危険です
加藤さんの弟さんの自殺や、宮崎さんのお父さんが自殺した、こういう話を耳にする度に、やるせない理不尽さみたいな苦いもの、、が残ります
確かに責任の大半は彼らの息子だったり、兄だったりするわけだけど、その一個の人間として全く別な感性と思考と欲とトラウマを持った人間を、どうにかして収めようと、それがいくら父であり、弟であっても、何かできたでしょうか?
出来ないでしょ
その出来ないことに、家族だからとか、妻だからと言って、その共同責任みたいなものを要求して、本人の犯した罪を加担させる、それも精神的に、それは全くおかしいとしか思えないし、私にはていのいい苛めの言い訳にしか聞こえません
こういう社会の最もそうな理屈をつけた嫌がらせを私は憎みます
同情という思いは持てないものか? と
がっくり肩をうなだれている人の方に置く手はないものかと、。
結愛ちゃんにおいては、もはや言葉もなく、愛が結ぶと名付けておきながら、こういう生き物を何と呼べばいいのでしょうかね
> インターネット上でとやかく、、、
こういう輩が 加藤さんの弟さんや、宮崎さんのお父さんを死に追い込むのです
無責任な言葉の濫用やめてもらいたい
言葉は刃物より人を傷つけますし、刃物の傷よりよっぽど癒えにくいのですから
私がツイッターやらラインやらを殊更忌み嫌うのもそのせいです
そして ブログはある程度自分を晒して書くものだけど、彼らは影に隠れてやるわけで、それがまた卑怯だな、と
嫌な世の中だなあと思います
人には、意地悪な気持ちがあります
妬む気持ちもあります
でもそれをやさしさとか共感とかで、中和させるのが、人間の人間たる所以ではないかと思うので、まあ、そういう意味で私の人間嫌いは加速しますが、ラッキーなことにローマはまだまだ田舎であるので、ほっとするような素朴な触れ合いもあったりするのです
だから、多大な不便を抱えながらも、私はこっちに住み続けているのかもしれません
夏目漱石さんのあの文章
ほら、この間「話し言葉」というのが話題になったでしょ?
彼があの文中で語っている個人主義とか、責任と義務とか、権力と金力に話しとか、そういう事にも共感しますが、
あの語り方がいいなあと私は思ったので、
つらつらとなんて事ない話しを語っているようで、其の実 全然退屈させないのは、やっぱり彼の人間性であり、その人間性のある人間が語る言葉になにかが籠っているからに違いないと私は確信します
まさに この間Takeoさんが引用された
「主体であるわたしたちが貧しいから、言葉がわたしたちを見棄てるのだ」という事ではないかと思います
名は体を表す、と同じように 言葉はその人の人となりを露骨の露見させます
まあ、そういう事に気付かないほど、感性も衰えてるわけで、読ませて、見せて 聴かせて恥ずかしいような言葉を平気で公に吐き出すのでしょうが、
で、醜いしかないなと、。 醜いものは嫌いです
ボンソワール、Junkoさん。
削除人間の存在、社会や文明の在り方、そういうものへのバランスを取るのが人間の「叡智」のはずです。理性は過剰になっている事柄を抑制し、適正な位置に針を戻す役割を担っているはずです。
わたしにとって考えるということは、前にも言ったかもしれませんが、目前の物事に対して、とりあえず「?」をぶら下げてみること。言い換えれば、何事にも批判的な眼差しを向けてみることです。
何にでも容易に適応してしまうということは、ある意味で恐ろしいことです。不器用な人、うまく適応できない人は「それ」と「自分」(の在り方)について考えざるを得ません。そういう人たちの存在が、多少なりとも地滑りを抑止する働きを持つのだと思います。
人間は家族であっても、否、家族である前に個人であるという発想がそもそもないのだろうと思います。最小の単位が家族。だから独り者を白眼視する。未だに独り者かい、と嘲う。
犯罪を犯した者や、その身内を叩く方が、スッキリするし、何故そのような事件が起こったかに思いを馳せるよりもずっと楽ですからね。
多くの人にとって、犯罪は、人間性のひとつの表出としての考察の対象ではなく、あくまでもアミューズメントなのでしょう。
より弱い立場にいる人たちに自然に手を差し伸べられるのが、高貴な魂と言えるのでしょうが、今のこの国では、魂は汚染される一方です。
漱石の、あれは講演ですから、当然話し言葉ですが、あの時代の人たちは書く時にもあんな感じで書いていますね。人間性でもあり、やはり教養の深さでしょう。
もちろん語り手と、語られた言葉は分けて考えることは出来ないと思います。
特に目の前で語っている場合には、否応なしにその人の人品骨柄というものが顕れてしまいますね。
ブログに書かれるコメントでも、二~三行の、適当な相槌という感じのものも多いですね。
わたしはそういうものなら要りません(笑)
とはいえ、熟考されたコメントに的確な応答ができる自信もありませんが。
よい週末をお過ごしください^^