2018年6月29日

この生命誰のもの?


作家の辺見庸が、相模原の障害者施設殺傷事件について、事件の翌月、2016年の8月に、沖縄琉球新報に二度にわたり記事を掲載している。
非常に興味深く読んだので、それをここに引用する。




【誰が誰をなぜ殺したのかー惨劇がてりかえす現在 ー 底なしの穴の深さ(上)】


わたしらは体に大きな穴を暗々(くろぐろ)とかかえていきている。その虚しさにうすうす気づいてはいる。しかし突きとめようとはしない。穴の、底なしの深さを。かがみこんで覗きでもしたら、だいいち、なにがあるかわかったものではない。だから、アナなどないふりをする。空しさは空しさのままに。穴は穴のままに、ほうっておく。いくつもの穴を開けたまま笑う。うたう。さかんにしゃべる。穴ではなく愛について。ひきつったように笑い、愛をうたい、空しくしゃべる。黒い穴の底に、愛がころがり落ちていく。

相模原の障がい者殺傷事件の容疑者はとっくにつかまっている。だが、誰が、誰を、なぜ殺したのかーこの肝心なことが正直よくわからない。のどもとをにはせいあがってきているものはある。それを言葉にしようとする。言葉がボロボロとくずれる。白状すると、わたしは夜中に思わず嗚咽してしまった。闇にただよう痛ましい血のにおいにむせたのではない。人間にとってこれほどの重大事なのに、その”芯”を語ろうとしても、どうしてもうまく語りえないだけでなく、わたしの内奥の穴が、仮説という仮説をのみこんでしまうのだ。それで泣けてきた。
惨劇からほのかに見えてくるのは、人には①「生きるに値する存在」②「生きるに値しない存在」ーの2種類があると容疑者の青年が大胆に分類したらしいことだ。この二分法じたいを「狂気」と断じるむきがあるけれども、だとしたら、人類は「狂気」の道から有史以来いちども脱したことがないことになりかねない。生きるに値する命か否か―という存在論的設問は、じつのところ古典的なそれであり、論議と煩悶は、哲学でも文学でも宗教でもくりかえされ、ありとある戦争の隠れたテーマでもあったのだ。

たぶん、勘違いだったのだろう。自他の命が生きるにあたいするかどうか、という論議と苦悩には、これまでにおびただしい代償を支払い、とうに決着がついた、もう卒業したと思っていたのは。それは決着せず、われわれはまだ卒業もしていなかったのである。あらゆる命が生きるに値する―この理念は自明ではなかった。深い穴があったのだ。考えてもみてほしい。あらゆる命が生きるに値すると無意識に思ってきた人々でも、おおかたはあの青年への来たるべき死刑判決・執行はやむをえないと首肯(しゅこう)するのではなかろうか。つまり「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の種別と選別を、間接的に受けいれ、究極的には後者の「抹殺」をみんなで黙過することになりはしないか。
だとしたら...と、わたしは惑う。だとすれば、死刑という主体の「抹殺」をなんとなく黙過するひとびとと、「抹殺」をひとりで実行した彼との距離は、じつのところ、たがいの存在が見えないほどに遠いわけではないのではないか。少なくとも、われわれは地つづきの曠野にいま、たがいに見当識をなくして、ぼうっとたたずんでいると言えはしないか。

ナチズムは負けた。ニッポン軍国主義は滅びた。優勝劣敗の思想は消え失せた。天賦人権説はあまねく地球にひろがっている。だろうか?ひょっとしたらナチズムやニッポン軍国主義の「根」が、往時とすっかりよそおいをかえて、いま息を吹きかえしてはいないか。7月26日の朝まだきに流された赤い血は、決して昔日の残照でも幻視でもない。「一億総活躍社会」の一角から吹きでた現在の血である。それは近未来の、さらに大量の血を徴(しめ)してはいないか。
あの青年はいま、なにを考えているのだろうか。悪夢からさめて、ふるえているのだろうか。かれにはヒトゴロシをしたという実感的記憶があるだろうか、「除草」のような仕事を終えたとでも思っているだろうか。生きる術さえない徹底的な弱者こそが、かえって、もっとも「生きるに値する存在」であるかもしれない―そんな思念の光が、穴に落ちた彼の脳裡に一閃することはないのだろうか。
(続く)

(「琉球新報」2016年8月11日)



【誰が誰をなぜ殺したのか(下) ――痙攣する世界のなかで 】

目をそむけずに凝視するならば、怒るより先に、のどの奥で地虫のように低く泣くしかない悲しい風景が、世界にはあふれている。「日本で生活保護をもらわなければ、今日にも明日にも死んでしまうという在日がいるならば、遠慮なく死になさい!」。先だっての都知事選の街頭演説で、外国人排斥をうったえる候補者が、なにはばからず声をはりあげ、聴衆から拍手がわいたという。かれは11万4千票以上を得票している。わたしの予想の倍以上だ。これと相模原の殺傷事件の背景を直線的にむすびつけるのは早計にすぎるだろう。けれども、動乱期の世界がいま、各所で原因不明のはげしい痙れん症状をおこしているのは否定できない。あの青年が衆院議長にあてた手紙には、愛と人類についての考えが、こなごなに割れた鏡のかけらのように跳びはねている。「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意……」の文面が、ガラス片となって目を射る。「全人類が心の隅に隠した想い」とは、ぜんたいの文脈からして、重度障がい者の「抹殺」なのである。障がい者 は生きるに値せず、公的コストがかかるから排斥すべきだというのが、人びとが「心の隅に隠した想い」だというのだろうか。これが「愛する日本国、全人類の為」というのか。ひどい、ちがう!と言うだけならかんたんである。凶行のあったその日も、その後も、世界はポケモンGOの狂騒がつづき、テレビは「真夏のホラー(映画)強化月間」に、リオ五輪中継。リアルとアンリアルのつなぎ目がはっきりしない。そう言えば、善意と悪意の境界もずいぶんあいまいになってきた。障がい者19人を手ずから殺めた青年に、犯行の発条(ばね)となる持続的な悪意や憎悪があったか、いぶかしい。戦慄すべきは、殺傷者の数であるよりも、これが「善行」や「正義」や「使命」としてなされた可能性である。 

惨劇の原因を、たんに「狂気」に求めるのは、一見わかりやすい分だけ、安直にすぎるだろう。「誰が誰をなぜ殺したのか」の冷静な探問こそがなされなければならない。世界中であいつぐテロもまた「誰が誰をなぜ殺したのか」が、じっさいには不分明な、俯瞰するならば、人倫の錯乱した状況下でおきている痙れんである。そうした症状はなにも貧者のテロのみの異常ではない。米軍特殊部隊は2011年、パキスタンでアルカイダ指導者ウサマ・ビンラディンを暗殺したが、その前段で、中央情報局(CIA)のスパイがポリオ・ワクチンの予防接種をよそおってビンラディン家族のDNAを採取していたことはよく知られている。ワクチン接種がポリオ絶滅のためではなく、暗殺のために利用されたのだ。結果、パキスタンでポリオの予防接種にあたる善意の医療従事者への不信感がつのり、反米ゲリラの標的となって殺される事件がことしもつづいている。ポリオ絶滅は遅れている。それでも米政府はビンラディン殺害を誇る。「米国の正義」を守ったとして。正義と善意と憎悪と "異物" 浄化(クレンジング)の欲動が、民主的で平和的な意匠をこらし、世界中で錯綜し痙れんしている。7月26日のできごとはそのただなかでおきた、別種のテロであるとわたしは思う。あの青年は "姿なき賛同者" たちを背中に感じつつ、目をかがやかせて返り血を浴びたのかもしれない。かれが純粋な「単独犯」であったかどうかは、究極的にかくていできはしない。石原慎太郎元東京都知事は、前世紀末に障がい者施設を訪れたときに、「ああいう人ってのは人格があるのかね」と言ってのけた。新しい出生前診断で "異常" が見つかった婦人の90%以上が中絶を選択している――なにを物語るのか。「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の二分法的人間観は、いまだ克服されたことのない、今日も反復されている原罪である。他から求められることの稀な存在を愛することは、厭うよりもむずかしい。だからこそ、その愛は尊い。青年はそれを理解する前に、殺してしまった。かれはわれらの影ではないか。

(「琉球新報」2016年8月12日) 



惨劇からほのかに見えてくるのは、人には①「生きるに値する存在」②「生きるに値しない存在」ーの2種類があると容疑者の青年が大胆に分類したらしいことだ。この二分法じたいを「狂気」と断じるむきがあるけれども、だとしたら、人類は「狂気」の道から有史以来いちども脱したことがないことになりかねない。」

人はすべからく生きるに価するのか?それとも、「生きるに価する存在」と「生きるに価しない存在があるのか?」
どう考えても簡単に答えの出せる問題ではない。

わたしは自分自身を生きるに価する人間の側に入れてはいない。入れることができない。
そしてわたしのように感じ、考えている人は決して少なくないはずだ。
生きるに価する存在か否か?それは一体何を基準に、誰が裁くことができるのだろう?
わたしじしん、彼・彼女自身は、自分の意思で自らのいのちを絶つ権利を有する。
自分には生きる価値がないのだと、考え、感じ、主張する権利を持つ。


ここに『私的所有論』という立石信也氏の本の書評がある。
本を読んでいないので、書評にある断片的なことばからの判断になるが、

評者の森岡正博は
障害者を産んだらとてもしんどいことばかりだし、自分も子供も不幸になるという考え方は本当に正しいのか。まず、障害者を産んだらその本人が可哀想だと考える人は、「自分の子供は自分の持ち物である」という発想に凝り固まっているのではないかと立石さんは言う。こどもの人生が不幸かどうかは子供自身が決めることだ。

現実的に考えて、21世紀現在の日本で、在日韓国人の子供として生れて、仮にその子供と、家族がいかにいたわり合い、愛し合っていたとしても、彼らは果たして「幸福」になり得るだろうか?
20世紀初頭の欧州に、ユダヤ人として生まれてきた子は、どのように幸福になり得ただろうか?

特定の時代・地域に、特定の民族・人種であること、疾病や障害などで、「健常者」と呼ばれるその他大勢と「違う」ということは、如何に強い家族の愛を以てしても突き崩すことの出来ない巨大な壁の前に立ち竦むことではないのか?

「私的所有」ではない。好むと好まざるとにかかわらず、望むと望まざるとにかかわらず、生れてきた子供は、ある時代、ある国、ある社会、そしてある文化の内部に生きる。
言い換えればわたしたちは誰もが、国に、社会に、その文化に緩やかに(或いは強く)「所有されて」いる。

「障害は(自他ともに対して)不幸しか生まない」という植松聖の言葉は、決して狂気の沙汰として、また全くの見当違いと切り捨てることはできない。

障害を持って生まれてきたことは絶対的な不幸ではない。そのような人たちが、安心して普通に生活できる環境さえあれば、彼ら、彼女らは確かに幸福になることはできるのだ。

一方で、子供の自責の念というものも考えなければならない。
いかに親に、周囲の人たちに愛されようとも、自分の存在が彼らの負担になっていると感じることは、障害を持つ者たちの共通の思いではないだろうか?
愛されれば愛されるほど自責の苦しみが増す。そんな悲しいパラドクスは、単にわたしの歪んだ物の見方のせいなのだろうか?

書評は続けて
障害者だとわかった上で出産を決意し、喜びも苦しみもある「普通の」人生を送っている親たちが現に存在する。
「五体満足な子供を持つためには何でもする」という誘惑に、ぎりぎりのところで踏ん張って抵抗し、「子供の生命の質を選ばない」という選択肢をゆっくりと納得しながら選び取ってゆく、そういう道を立石さんは探そうとする。

親は、家族は、我が子の生命の質を問わないという決心をしたとしても、そのような属性を持った個々人が帰属している社会が(作為・不作為を問わず)生命の質を選別するという現実があるのだ。
「犯罪とは病気そのものではない。症状なのだ」という言葉に従うなら、「植松聖」とは、この病んだ社会の「症状」といえるだろう。

「私的所有論」は1997年に出版された500ページ近い大部の書である。

1997年といえば、アウシュビッツから生還し、1987年に自死したイタリアの化学者ー思想家、プリーモ・レーヴィの死後10年に因んで、ローマで「プリーモ・レーヴィ、ヨーロッパの作家」と銘打たれた集会が催された。
その集会で、レーヴィの友人であったユダヤ人の教授は、ブレヒトの言葉を引いてこう言ったという

「あのモンスターを生み出した子宮はいまだ健在である・・・」














4 件のコメント:

  1. 人だもん。
    人だから、としか言いようがない。

    たった2歳や3歳で、人は生命の外に滑り落ちる。
    自分の足で歩くとき、
    なんのために、なにをして、そんな価値へと駆け上る。
    その価値観は、生命を取り込んでしまう。
    生命を基にして成り立っているにもかかわらず、
    逆に、生命が価値観に所有されてしまう。
    所有により、生命の価値が抜け落ちる。
    生命の所有は、その放棄 ―― 自殺をも可能にしてしまうのだ。
    そのくせ、今、ここにいること、
    つきつめれば、人にはそれしかない。
    ただ生きていること、
    それだけに価値を見つけるほかはない。

    >人はすべからく生きるに価するのか?
    値する。
    >それとも、「生きるに価する存在」と「生きるに価しない存在があるのか?」
    ある。

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、青梗菜さん。

      なるほど、生命そのものが価値観に所有される。

      それは究極的にはそうなんだと思います。理論上は、あるいは理念としては。
      けれども、セント・ジェロームのように、山の中にライオンとふたりで暮らしているような場合は別として、大抵の人間には「周囲」というものがあって、それが「学校」であったり「会社」であったりまた「町内」であったりします。
      その周囲が、存在そのものの価値に気づかない限り「異質の者」が幸せにまたは「ふつうに」生きることは難しいというのが現実だと思うのです。

      人は無価値でもいい、存在そのものの価値という考え方と、「資本主義社会社会」特に現代社会のありかたはどうしても相容れないもののように思えます。


      削除
  2. >人は無価値でもいい、存在そのものの価値という考え方と、「資本主義社会社会」特に現代社会のありかたはどうしても相容れないもののように思えます。
    はい。
    僕たちの頭が、いつもいつも休まずたゆまずやっていることは、
    価値の並び替え、だと思うのです。
    僕たちは、価値の並び替え函数で、
    価値の高いものごとを観て、価値の低いものごとを観ない。
    価値がないものは観えない。
    無価値のものは、存在しないのと同じです。

    ルワンダ虐殺で80万人死んでも100万人死んでも、
    知らなきゃ存在しなかったのと同じで、
    確かに存在しているのは、目の前にあるスマホです。
    液晶に映る影のほうが、当然、価値が高い。

    生命=価値、そんな公式があります。
    生命は、理屈抜きに大切、と言えば誰からも反論されない。
    あかちゃんライオンに向けるおかあさんライオンのまなざし、
    そこに理屈がいるのか、って理屈がある。
    生命=価値としないで、そこに理屈をつけたがる僕は、
    冷たくて、人でなしで、犬にも劣るw。

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、青梗菜さん。

      そのひとにとって、「あること」が存在しているかどうかは、結局は「それ」に眼差しを向けるかどうかだと思っています。隣に人がいても、関心も興味もなければそれは単に物理的に存在しているだけで、わたしー彼(彼女)の「関係」には至っていません。

      ルワンダでなくとも、同じ国でのヘイトや歴史についても、興味が無ければ知らないでいられる。前にも書いたけど、スマホなどの携帯端末は人の意識を「いま・ここ」に縛り付けます。人々は永遠の「今・ここ」と共に生きているように見えます。

      生命=価値という公式は何故そうなっているのかいったいどれだけの人が考え、検証したでしょう?ほんとうにそうなのか?と、わたしは思います。思うから上のようなことを書き、過去に秋葉原のことについて書きました。
      誰でもいい。道行く人に訊いてみたい。
      生命は無条件に価値のあるものですか?あなたはこころからそう信じていますか?と。

      誰もが疑おうとしない真理とされているもの。
      誰もが善であると(悪であると)疑わないもの。

      そういう事柄をあらためて紐解いてゆくことが哲学でなくて何でしょう?

      メッセージをありがとうございます。

      削除