2018年5月24日

蛇蝎の如く、或いは「文化なき文明」


(再び)『ラ・バテエ』から、

今回中井は、当時(1980年)毎日新聞に掲載されていた読者コラムを取り上げる。それは三島由紀夫の死の二年前から三度に亘り作家を訪問した、元自衛隊陸将補、山本某氏の”三島由紀夫”という投稿で、その文中に、次のような一節がある。


「彼は人生を回顧して「鼻をつまんで通り過ぎたにすぎない」と言い置きした。」

この深い嫌悪感 ── 嫌悪というよりあまりに剥き出しな地上のものいっさいへの憎悪と拒否は、美と醜への鋭敏過ぎる嗅覚に依っているが、それよりも生得の生理と気質から堪え切れずに吐き出した罵りの唾であろう。
かつて江戸川乱歩は、もう一度生まれ変わるとしたら何になりたいかと問われて、どんなものだろうと二度と再び地上に生を受けたくないとニベもなく言い放ったが、三島もまた当然、吐き出すように同じ答えをしたことであろう。そしてこの二人が地上の名声とは裏腹に、自分を人外(にんがい)と規定し、無垢な少年の魂を保ち続け、そして同性愛の心情をあえて隠さず、それなればこそ、”身を撚(よ)るやうな悲哀”にしじふ浸されていたからには、この地上が腐鼻にみちた汚穢の海であり、二度とそこで暮らそうなどと考えもしないことは当然であろう。あれほど一面では人生を享楽しているように見せかけながら……。 
(死の方角)

わたしには中井が当然のこととして受け止めている彼らの厭世観が、はたして「本物」であったのか、或いは著名な芸術家にありがちな韜晦であったのかどうかはわからない。
けれどもそれが擬態にせよ本心にせよ、上に書かれているような言葉の数々は、正にわたしの心の在り方「死の方角」に正確に一致する。
いや、これは正にわたしのことだ、と思った。



わたしはテレビを持っていないし、インターネット上で、「動画」を視る趣味も持たないが、たまたまYou Tubeで音楽を聴いていたときにCMが入り、それをスキップしようとして、画面に目がとまった。

それは、今もあるのかどうか知らないが、昔ながらの居酒屋で大学生らしい若い男女たちが酒を飲み、賑やかに談笑しているシーンだった。一人の女性が立ち上がり、「ええと、今日の会計は一人当たり三千幾らになりまーす!」とみなに伝えている。銘々周りの連中とのあいだでゴソゴソし始める。
「オレ、万札しかないんだけど」「悪いけど、貸しといて!」「・・・ええと、じゃあ二百円のお釣りね・・・」はたまたこっそりその場から逃げ出す者あり、「ユキは遅く来たんだから、少なくていいよ・・・」と隣の女性の肩に腕を回し、この機に乗じて更なる接近を図る男、等々あって、ああ、なんのコマーシャルか知らないが、今どきまだこんな風景があるんだなぁと思って視ていた。すると、一人が集めたお金を持って来て、何かのはずみでそれを鍋のなかにざらざらと落としてしまう。飛び散る煮汁。それを避けようと顔を覆い、スロー・モーションで後ずさりする女性、そしてそのまま倒れ込み店の壁を突き破ってしまう。
呆然と見つめる一同と店の主人。

と、そこで画面が替わり、ニュース・スタジオに。女性のアナウンサーが隣の男性に「大変ですよね。飲み会での割り勘・・・」頷く男性キャスター、カメラに向かって「こんな時、使える言葉を教えます。”LINE Payで割り勘ね!”」
画面は再び居酒屋に戻り、幹事の女性はみなに一言。「LINE PAYで割り勘ね!」
というとその場にいた全員が一斉に「オー!」とスマホを高々と掲げる・・・
ナレーション ー「お金も送金できるLINE Payなら、割り勘機能で素早く割り勘ができます。LINE Pay で簡単割り勘!」



スマートフォン、iPad が席巻する世界は、「鼻をつまんで駆け抜ける」以外にはないではないか。

先日引用した言葉をここでもう一度

かつてオズワルド・シュペングラーがいっていた、「文明の冬」において流行するのは、「新技術への異常な熱狂」と「新興宗教の異常な高まり」である。今の自由民主主義は「新技術を新興宗教とする」ことによって成り立っている。それ自体が、サトゥルティ(繊細)の精神を要する活力・公正・節度・良識という平衡感覚に対するテロリズムである。
ー 西部邁 『ファシスタたらんとした者』(2017年)

クラーク博士と親交のあった祖父を持つ中井は、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」に代わる「呪文」として Aberration =「常軌を逸すること」「倒錯」「脱線」を選び、
「ボーイズ・ビー・アバレイシャス」と説く。

プラスティック製の携帯端末が世を覆う酸鼻を極める現代社会で、脱線して「人外」となって生きることは誰にとっても困難だ。
「・・・誰にとっても?フン。馬鹿を言うな。携帯端末を蛇蝎の如く嫌う痴れ者など、お前以外にいないということがまだわからんのか?」どこかでそんなかすかな声がする。

アバレイシャス=逸脱、脱線の方角は最早「この世界からの遁走」以外にはないのかもしれない。










2 件のコメント:

  1. NIcoさん、こんにちは。今日は仕事の合間にタブレットを使ってのコメントです。
    5月25日(金)の産経新聞、7面の連載記事に“モンテーニュとの対話”というのがあります。
    副題は“随想録を読みながら”です。
    今日の記事は、文化部の桑原聡という記者の書いたもので、タイトルは「沖中仕の哲学者を読む」となっていて、沖中仕の哲学者=エリック・ホッファーの著作を読みたくなった、と云うところからこの記事は始まっています。
    各小タイトルには、ホッファーの自伝に魅了され・スマホ依存で思考は軽薄に?・すべての基本は深い自己認識、とあるのでどうしてもNicoさんの意見が聞きたくなったのです。
    この記事を読んでみていただけないでしょうか。

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    1. こんばんは、yy8さん。

      エリック・ホッファーは自らを「ミスフィット」(=不適合者)と呼んでいましたね。わたしも正にミスフィットです。
      図書館でコピー出来れば読んでみます。今日明日というわけにはいかないと思いますので、数日待ってください。

      記事の紹介をありがとうございます^^

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