三十歳前後の数年間、夏休みになると高校時代の友人二人と(時にはわたしともう一人で)国内旅行をしていた。わたしは海外はおろか、本州からすら出たことはないが、或る年三人で仙台旅行にいった。松島や伊達のお城よりも、野蒜海岸という海辺を独りで歩いていたときの思い出が強く残っている。日暮れが近かった。漁船が数艘、砂浜に曳き上げられていた。力強い波の音がしていた。
人が聞けば苦笑されるだろうが、ああ、いま、東北に、宮城まで来てるんだなぁという感慨は深かった。
「遠さ」というものを感じられなくなったのは、乗り物がおしなべて当時より遥かに速くなったことと、いづこもおなじような風景が広がり、「あそこ」も「ここ」も区別が付かないくらいにどの都市も、どの町も似ているので、距離がどんなに縮まろうと「ここ」と大して変わらぬ景色を見るために、わざわざ「あそこ」まで行く必要があるのだろうかという気怠い思いもある。
あの頃は、「あそこ」に行けば「ここ」では見られないものが見られる、ここにないものがあるという期待があった。見知らぬ土地へのあこがれとときめきは、現実の時の長さを忘れさせた。
◇
掘辰雄の妻である堀多恵子が、夫の死後、博多に夫の叔父叔母に会いに行った帰路、大分の由布院に立ち寄った時のことを回想した文章がある。
多恵子は由布院という温泉町を知らなかった。由布嶽の麓にある温泉街らしからぬ静かで落ち着いたところだという印象を持つ。偶然入った店で見つけた観光用の絵葉書には「九州の軽井沢」と書かれていた。
由布川という名の川沿いを、毎日所在なく散歩していた。
鬱蒼とした森があって、そこにさほど大きくない湖が静かに水を湛えている。湖の畔に、小さな茅葺き屋根の家があって、多恵子はいつもその家を散歩の目標にしていた。
湖には、森を背にした茅葺き屋根の家が、逆さまになって映っていた。
或る日散歩の途中にわか雨に遭った多恵子は、そこの老夫婦に迎えられた。
それがその小さい茅葺き屋根の家に入れてもらった最初の日だったような気がします。
湖には小さな丸いたらいのような舟が繋いでありました。おじいさんとおばあさんは、夜になると月の光の中をこのたらいの舟を漕いで、お湯に入りに湖の向こうに行くのだと言っていました。
おじいさんの顔も、おばあさんの顔も、もう思い出せませんが、不思議にその一軒家ははっきりと記憶に残っているのです。あれから由布院にはゆく折りもありませんでしたし、私を呼んで世話をしてくれた信仰の厚い老婦人も今は亡き人となってしまいました。
私が今も心を馳せるあの淋しい森も、あの逆さまに湖水に影を落としていた家も、あのままの筈はありません。おじいさんおばあさんはどうしてしまったでしょう。私はその昔、そこに住む老夫婦の暮らしが羨ましくてたまりませんでした。もう一人ぼっちになってしまっていたのに、自分たち二人がその森の家に住み、月の光がきらきらする湖上をたらいの舟で私が漕いで渡る。そんなことを夢みたものです。
夏が来て、なんとなく自分の身辺が騒々しくなったり、車の騒音が気になってねむれない夜があったりしますと由布院で送った日のことを思いだします。
ー 堀 多恵子『片蔭の道』より「又、夏が来ます…」(1976年)
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