2018年5月3日

関係性の中で、サン=テクジュペリ「ある人質への手紙」より


Flower Meadow in the North,  1905, Harald Sohlberg. Norwegian (1869 - 1935)  

先日の「アナタハ「ニンゲン」デスカ?」という投稿について、コメントを頂いた。それへの返信を書く前に、わたしの舌足らずの問いかけの意味について、自分自身、もうすこし明確にしたいと思い、以下、アントワーヌ・ド・サン=テクジュペリの「ある人質への手紙」から、少し長くなるが、抜粋、引用したい。


◇◆◇


港湾の商船にも、例の亡命者たちの姿が見られた。この船もまた、なにか軽い不安の念を辺りにふりまいていた。あの根のない植物たちを、大陸から大陸へと運んでいたのだ。ぼくは思った、「旅人にはなりたいが、亡命者にはなりたくないな。国で、多くのことを習い覚えたけれど、よそへ行けばなんの役にも立たないだろう」と。ところが、こういう亡命者たちは、ポケットから、小さな住所録や、彼らの身分を示す残片をあれこれと引っぱり出した。なおも、何者かであるようにふるまっていたのだ。なにか意味のあるものに、必死になってすがりついていたのだ。彼らはこんなことをいっていた。
「よろしいですか、私はこういう者なんです。こういう町のものです・・・こういう人の友達です・・・あなたはこういう方をご存知ですか?」
そして誰か或る仲間のことや、自分が背負っている責任のことや、失敗のことや、その他自分を何かに結びつけてくれそうなことを、手当たり次第に物語るのだ。だが、祖国を離れ去って来ているのだから、もはやそのような過去は、何ひとつ彼らの助けとはならないだろう。過去は、冷めやらぬ恋の思い出のように、まだ熱く、みずみずしく、なまなましかった。
 (略)
だからぼくは思うのだが、仲間も、責任も、生まれ故郷の町も、自分の家にまつわる数々の思い出も、もはやそれがなんの役にも立たなくなれば、色褪せてしまうのだ。

彼らもそのことははっきりと感じている。リスボンが幸福を装っているように、彼らも、近く帰れると信じているかのようにふるまっていた。放蕩息子の出奔など、なんと甘美なものだろう!彼の出奔は、ただ見かけだけのことにすぎない。背後には、彼の家が残っているからだ。隣の部屋にいて留守だろうが、地球の反対側にいて留守だろうが、そのような相違は重要なことではない。見たところ遠く離れている友人の存在が、現に眼の前にいる場合よりもひしひしと身に迫ることもある。それは祈りによる存在なのだ。ぼくはサハラ砂漠にいたときほど、わが家を愛したことはない。十六世紀ブルターニュの船乗りたちは、ホーン岬を廻ろうとしては、壁のように立ちふさがる逆風に行く手を遮られて年老いていったが、かつてどのようないいなづけも、彼らほどいいなづけの女のそば近くにいたことはないのだ。彼らは出発の時からすでに帰路を辿り始めていた。出航準備に帆を引き揚げるとき、その武骨な手は、帰還への第一歩を準備していた。ブルターニュの港からいいなづけの女の家へ行くための最短の道は、ホーン岬を通っていたのだ。だがぼくには、あの亡命者たちが、ブルターニュに待ついいなづけを奪われた船乗りのように見えた。もはや、彼らを待って窓辺のつつましい燈火の火を点けるいいなづけはいはしないのだ。彼らは放蕩息子でもなかった。立ち戻るべき家のない放蕩息子だった。このとき真の旅が、自分自身から放り出された旅が始まるのだ。

どのようにすれば再び自分を築き上げることができるだろう?どうすれば自分のなかに、重い思い出の「かせ」を再び作り上げることができるだろう?この幽霊船は、冥界のごとく、生まれ出るべき魂たちを乗せていた。この船に乗り組みながらも、真の仕事を持っているためにいかにも品位ある態度を保って、皿を運んだり、銅器の艶出しをしたり靴を磨いたりしている連中、こういう連中だけがじつに現実的だった。指で触ってみたくなるほど現実的だった。亡命者たちが乗組員のなんとはない侮蔑を招いているのは貧しさのせいではなかった。彼らに欠けているのは、金ではなく、中身の詰まった感じなのだ。
もはや彼らは、なにか決まった家や友人や責任を持った人間ではなかった。そのようにふるまってはいたが、もはやそれは現実のことではなかった。誰ひとり彼らを必要とはしなかったし、彼らに助けを請おうともしなかった。真夜中に人を動転させ、起き上がらせ、駅へ駆けつけさせる、あの「スグコイ!キミガヒツヨウダ!」という電報はなんとすばらしいものだろう。助けてくれる友人はすぐに見つかるものだ。だが、友人に、助けてくれと言ってもらえるようになるのは、なかなかのことなのだ。確かに誰ひとりあの亡霊たちを憎む者はいなかった。嫉妬する者もいなかった。うるさくつきまとうものもいなかった。だが、愛こそ重要なものなのに、誰ひとりそういうかけがえのない愛で彼らを愛しはしなかったのだ。
 (略)
それでぼくはこんなことを思った。「大切なのは、生きるよすがとなってきたものが、どこかに残っていることだ。慣習でもいい。家族のあいだの祝いごとでもいい。さまざまな思い出に満ちた家でもいい。大切なのは、再び立ち戻ることを目指して生きるということだ・・・。」

「ある人質への手紙」『サン=テクジュペリ著作集 第5巻』粟津則夫 清水茂訳(1966年)



人は関係性の中でしか「わたし」たりえないとわたしは思っている。

こうして人々は、おのれを引きつけたり突き放したり、働きかけたり抵抗したりする数々の磁力の場によって、緊張し、生気づけられるのを覚えるのだ。今や人びとは、しっかりと支えられ、しっかりと限定されている。基本的な諸方向の中心でしっかりとおのれの座を占めているのだ
ぼくにはあの人びとが、ぼく自身よりももっと堅固で永続きする存在だと感ずる必要があった、進むべき方向を定めるためには彼らが必要だったのだ。立ち戻るべきところを知るために、現実に存在するために、彼らが必要だったのだ。(同上)

「ねえきみ、ぼくには息のつける山頂の空気のように、きみが必要なのだ!」






8 件のコメント:

  1. この記事とは関係ない事で申し訳ありませんが、運命と宿命という言葉の使い分けに付いて説明させて下さい。

    宿命というのは生まれた時から持っている心の“質?”の事を言い、運命とはその心を以て生きる事象の事を言うと解釈しているのです。

    だからNicoさんが、どうも普通の人とは違うような気がすると感じる、その心を宿命と言い、今のNicoさんを取り巻く状況や、生き方を運命と言いたいのです。

    運命は宿命あるが故に、と言えると思います。

    物事は見る位置で見え方や捉え方が変わってきます。
    これまではNicoさんを見る位置が定まりませんでした。
    でも、やっとNicoさんの一面(一部分)がはっきりと分かる位置に立ちました。

    ただ、これからも独特で魅力ある感性に触れたいので、何が見えたのかは内緒!です。

    Nicoさんが取り上げる絵画や写真はとても魅力がありますし、それに批評などは勉強になります。

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    1. こんばんは、yy8さん。

      この絵は本文と何の関係もないんですけど、わたしは北欧の画(風景画)が好きなもので、それに文章だけだとちょっと味気ない気がしたのでアクセントに使ってみました。ノルウェーの花畑の画です^^

      宿命がいのちの質であるならば、運命は既にその質に依って規定されていると言えますね。
      これは以前からわたしのブログに使っている「性格とは運命である」という言葉と通じていますね。

      yy8さんとはおしえてgooからの付き合いで、わたしのこの手の質問回答者とのやりとりも随分見ていると思いますが、何かあらたな発見でもありましたか?
      わたしはうなぎみたいなもので摑みどころがないですからね、今見えているわたしもまたいつ変わるかしれませんよ(苦笑)

      それでも独特で魅力があると言われるとうれしいですね。

      いつでも気軽に話しかけてください。

      よい連休後半を過ごしてください^^

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  2. アトリ姐ちゃん2018年5月5日 1:49

    アトリ姐ちゃんの方が気に入ってるんなら、
    どうぞアトリ姐ちゃんと呼んでくださいまし。
    アトリだと、他にも鳥のアトリが好きな人が
    HNに使ってるかもしれませんしね。

    サン=テグジュペリは大好きな作家で、
    こちらで手に入る著作は全部読みましたが、
    この作品は知らなかったです。
    ドイツ語に翻訳されてないようです。

    人との関係性の中に拠り所や自分の存在性を求める気持ちも分かりますよ。
    人ってタマネギみたいなものですものね。
    1枚1枚の皮が何かの他者との関係性で、それを剥がしていくと、
    空(くう)しか残ってませんもの。
    そりゃあ、不安になるでしょう。空の本質を知ってなければね。
    求道者達はかえって玉ねぎの皮からの解放を願うものですけどね。
    求道してない人にとっては、恐れを感じさせることでしょうが(笑)

    ノルウェーの花畑の画、いいですねえ!
    Takeoさんがアップされてる絵や写真、いつも琴線に響いてきます。
    皆知らない作品ばかり、どこから探してくるのだろうと感心しています^^

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    1. こんばんは、アトリ姐ちゃん。(「さん」つけるとへんでしょう?)

      わたしもこの作品は知らなかったのですが、『暮しの手帖』の中で、誰かがこの作品のキーワードともいえる「微笑み」について語っていたので、興味を持ちました。

      『星の王子さま』は映画でしか観たことがないんですよ。『雨に唄えば』のスタンリー・ドーネン監督作品。やはりミュージカルですが、ボブ・フォッシーの蛇やジーン・ワイルダーのキツネなど、とてもいいですよ。

      人って、いろんな形で、自己というものを確認するものですね。「無」といい「空」といっても、それもまた「存在」のひとつの様式だと思うのです。

      わたしは求道者ではありませんが、生き辛いとどうしてもあれこれと考えを巡らせてしまいます(苦笑)

      最近文学系(?)のツイッターを覗いていますが、そのなかでこんな発言を見つけました

      「ぴったりの言葉は見つかっても、ぴったりの解決策は見つからない。伝えたいのではないのです、解決したいのです…」

      ぴったりの言葉があって、それを誰かが確かに受け止めてくれたと感じることが出来たら、それ自体が解決ではないかと・・・

      ツイッターですから「文脈」がなく、発言者の「解決」に繋がる「問題」は不明ですが、わたしは自分がこの「生き辛さ」が解決されるという希望は持っていません。

      ただ孤独ではいたくない。玉ねぎの皮に包まれていたいのです(苦笑)


      絵を気に入っていただけてなによりです。
      絵では風景画、写真はモノクロの自分物写真が好きです。
      大体海外のブログやミュージアムのサイト、クリスティーズやサザビーズのようなオークションのサイトからピックアップしてきます。

      アートオンリーのブログもやっていますが、やはり日本人には人気ありませんね(苦笑)

      アートと生活が地続きではないようです。


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    1. 瀬里香さん、久しぶりですね。全然フェイスブックに顔出してないし、といってツイッターもやっていません。

      いつでも歓迎します^^

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  4. blueさん。


    このお話しを読んで、【誕生】とか【禊】とか【水葬】とか【丸裸】とか【reborn】みたいな言葉たちが頭の中を流れました。その昔、自分を【neutral】と名付けたときの気持ちなんかも、ついでに頭を流れました。


    ここに引用はしませんが、≪わたしを束ねないで≫ という詩が大好きだと、いつだつたか、たぶんわりと最近、blueさんに話したのを覚えてゐます。

    あの詩の中の【わたし】は、誰かや何かから【逃げてゐる】わけではなく、ひとりの【わたし】が、ひとりの【わたし】として生きるために、【別のわたし(≒自分以外の人)・(≠他人)】に向けて語りかけてゐるやうに感じるからです。

    __________

    blueさん。

    また来る。

    いや鉛筆で書いた紙を送りつけるかもしれない。



    今日は小中高12年間、同じ学校に通つてゐた友達が、「今から自転車旅行をするからお前も来い」と云つてくれたので、わたしは秒で出動し、山の中をたくさん走りました。商談や取引と違つて、利害関係が一切なくて、単純に一緒に楽しみたいから、というそれだけの理由でわたしを呼び出してくれる友達の存在は、存在自体が温かくて、


    【実は他に何も要らないんぢゃないの?】


    と思つたのでした。今日。数時間前。
    おやすみ。
    良い来週を。

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    1. はは、相変わらず鋭いつっこみですな。
      読んでるうちにいろんな言葉が頭の中を流れてゆく感覚というのはわかります。が、瀬里香くんほど意識的ではないようです。

      わたしを束ねないで、についてはまた改めて話したいですね。

      >【実は他に何も要らないんぢゃないの?】

      そう思うよ。正に!

      see you very soon!

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