プーシキンが南ロシアのキシェニフにいたころ、ある参謀将校とバカラ賭博のことで決闘になった。その場に臨んだプーシキンは、桜ん坊の一杯はいった帽子を手にしていた。そして、相い手が狙いをつけている間、帽子の中から熟した桜ん坊を選りだしてムシャムシャやりながら、パッパッとあたりに種をはき散らしていた。ピストルが鳴った。が、狙いは外れた。
プーシキンは「どうだ、得心がいったか?」といってカラカラと笑った。これが実話である。
しかるに、プーシキンの『その一発』という小説の中では、相い手はピストルを射たない。平然として桜ん坊を頬張りつづける男をみて、まるで命をおしがらないような人間を射ち殺したところで張り合いがないと考え、その一発を射つことを保留し、敵の生涯の最良の年のくるのを待つ。そしてその桜ん坊男が、絶世の美女と結婚して、幸福な蜜月をすごしている瞬間を狙って、突然、その眼の前に現れ、「お見忘れかね?」とかなんとかいいながら、おもむろに保留していたみずからの権利を行使しようとするのだ。敵が内心のロウバイを隠しかねたのも無理はない。ただならぬ雰囲気を察して、ふるえあがっている新婚の女房をみると、ますます、かれは、人生から足を洗うのがイヤになった。「犬死礼賛」という文章の中で、花田清輝は、この小説の結末を書いてはいない。
さて、ではこの後事態はどのように展開したのか?
わたしも結末を知らない。
仮にわたしがこの決闘相手であったらどうするだろう?
元はといえば、たかが賭博のいざこざ。故郷はなれて幾星霜、草の根分けて瓦を起こして探し求めた仇敵ではないのだから、必ず仕留めなければならないという相手ではない。
いっそ彼の変わり果てた姿を見て、またしても射つ気を失くしてしまうかもしれない。
彼を射ち殺したところで得るものは何もないのだから。
周章狼狽し、醜態をさらすかつての豪胆不敵な桜ん坊男の姿を目にしただけで充分ではないか・・・
と思うような気がする。まぁこのあたりは人それぞれの心の内にひそむ残虐性によるのかもしれないが。
人が幸福の絶頂で死ぬのは果たして本当に不幸なことなのだろうか?
これ以上ないという幸せの頂点に立って、そのまま昇天してしまうことは悲劇だろうか?
奢れるものは久しからずといい、朝に紅顔ありて夕べに白骨となるという。幸せは永遠には続かない。いつ人は変わり果て、誰に狙われずとも自らの心臓に、こめかみに、銃口を押し当てる日が来るかもしれないのだ。
こ れ が ま あ 終 の 棲 家 か 雪 五 尺一茶晩年の句に呼応して、矢川澄子はこう詠んでいる
こ れ が ま あ 終 の 女 か お 澄 ち ゃ ん (1971年)
「誰もが夭折の幸運に恵まれているわけではない」 というシオランの嘆息を、くたばり損ないの自嘲として付け加えておこう。
いろいろと思うところありますが、あえて言いません。
返信削除私の人間観というか、人生観というか、生命観というか、そんな気持ちが刺激されました。
言葉を添えれば「生命というものは・・・」なんて事を。
そうですか。yy8さんのどんな気持ちが惹き起こされたのでしょう?是非聞きたいところですが・・・気が向いたらお話しください。
削除よい週末を!