もう五年も前のことになるが、弟の入営を郷里まで見送りその帰りに日和下駄を一足買って戻った。軽い桐の台の、赤い緒の、値段も廉いものであったが、どこか、がっちりとした恰好が好もしく、気軽に足を載せてみたくなるような品であった。病床の妻はそれがよほど気に入ったらしく、気分のいい時など畳の上で履いてみたりしたが、早くその歯をぢかに黒土に触れる日を待ち望むやうに、そっと履物を労わって仕舞込んで置くのであった。
けれども下駄の履ける日はなかなかやつて来なかった。重態になってからも、妻はよくその下駄を枕頭に持って来て見せてくれと云った。緒の色も今は少し派手であった。が、矢張その下駄をきりつと履きしめて歩ける日を夢見てゐたやうだ。
天気のいい日など、私は今もあの下駄を履いて身軽に歩き廻る姿を思ひ浮かべ、その足音を耳の底に聴きとらうとするのである。
ー 原 民喜「忘れがたみ」より「日和下駄」(1946年)
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昨年春、数年ぶりに都心で人と会うというので、わたしは新しい靴を買った。
地元のスーパーの靴屋の安いものだが、薄いブルーの細かい格子模様が気に入っていた。
その人とは三月と四月に一度づつ会い、その後もまたどこか歩きましょうと話ていたのだが、五月ごろからまたわたしの体調が優れずに、夏には、秋には・・・などと言っているうちに年を越してしまった。
その後靴は医者に行く時に履かれるだけになっている。
靴を買ったのと同じ時期に腕時計を買ったのだが、結局それもその時に嵌められたきり抽出しのなかに眠っている。
空色の靴を履き、大きな文字盤の腕時計をはめて、身嗜みを整え、医者以外の人と会うため、病院以外の場所に行くために外に出る機会は、もうないのだろうと思っている。
そうそう。ことしの春、同じ靴屋で、もう一足靴を買ったのだっけ。どこに行く予定も、会う人もいないのに、何故かその靴が欲しくなって・・・
月に一度かニ度、医者に行くだけなのだから、新しい靴など買う必要はなかったのに。
今もその靴は一度も履かれることなく靴箱のなかに仕舞われている。
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