2018年5月15日

どちらが怖いか?(相対的な狂気)


五月の美しい夕暮、のんびり散歩をしていると、突然に逮捕されて牢屋に入れられてしまうという短篇がブラッドベリにあるけれども、散歩そのものを罪とする風潮は、現代の日本でもそろそろ兆しかけている。細い路地に目立つ” ち漢に注い ” とか ” 怪しい人をみたらすぐ一一〇番 ”などという貼り紙がそれで、その心の狭さ・村人意識には呆れ返るしかない。もともと東京は都市などではなく、大きな村落に過ぎなかったけれども、こんな” 他人を見たら泥棒と思え ”式の、みみっちい貼り紙を許すことだけはなかった。
 (略)
” 怪しい人 ”という発想もまた、少年探偵団の好奇心とは無縁な、ふだん見かけないよそ者の意味だろうが、見知らぬ他人こそ旅びとであり、未知の海への案内者かもしれないのだ。どこの社会に行きずりの旅人を警察へ売るしきたりがあるだろう。ましてそれを得々と奨励する社会に到っては!
こういうせせこましい地域内の同族意識をかき立てるために、戦争中の隣組制度があった。顔見知り・わけ知りの既知の人しかいない社会の息苦しさはもうあの体験だけで充分だろうに、無限の可能性を秘めた赤の他人を閉め出す閉鎖部落はそこここに殖え、風薫る五月の散歩もどこかうしろめたい、犯罪者の意識なしには出来なくなる日も近いらしい。
ー 中井英夫『LA BATTEE』(ラ・バテエ)より「痴漢」(1980年5月)

以前大田区の馬込に住んでいた時か、それとも10年前に郊外に越してきてから馬込に行ったときであったか、住宅街の壁に『この町は 監視する町 見てる町』というポスターが堂々と張ってあって慄然としたことを覚えている。かと思うと、しばらく歩くと大きな「邸宅」の玄関脇に『おい!そこのお前 見てるぞ!』という貼り紙。
それはなにも馬込に、都心に限ったことではなく、国立に住んでいた頃には、古書店の書架の隙間に、文句は正確に憶えていないが、『誰かがきっとみているきみの罪』という短冊状の貼り紙がしてあった。言うまでもなく万引き防止のためだろうが、万引きは「窃盗罪」ではあっても、はたして「きみの罪」というような類のものだろうか?この場合、店側は「罪」を「クライム(Crime=違法行為)」として書いているのか、或いはもっと根深い、人としての罪「スゥィン(Sin)」だぞと言いたいのか判別しにくい。
その書店の、道を隔てた向かう側に建つ比較的規模の大きな書店にも、御多分に漏れず「その手の」貼り紙があって、そこには『地域ぐるみで万引き撲滅中』と印刷されている。「地域ぐるみ」「撲滅」・・・この言葉の強さ、激しさ、そこに込められた、「万引きであろうと容赦はしないぞ!」という憎悪・・・どこか常軌を逸しているようなうそ寒さを感じさせる。

中井の文章は、約四十年前に書かれたものだが、「よそ者への排他意識」は、強まりこそすれ、「あの当時はなんであんなにピリピリしてたんだろうねえ」などという意識の変化や、異質の他者への寛容性の増大など、影も形も見えはしない。
同じ日本人であると認めながらも、自前の民族性なのか、長い歴史の中で蓄積されてきた習性だか知らぬが、見知らぬ人物イコール危険物という眼で見る人たちである、よその国から来た素性も知れぬ人たちに牙を剝くのは当然の仕儀だろう。(とはいえ「白人」は例外であることは言うまでもない)

数十年前、わたしがまだ学生の頃に書かれた本などを読むにつけ、その時々の「今現在」の「政治・政権」が替わろうと、日本人というもののエッセンスは「とわに」変わることはないのだろうなぁと、五月の日差しを窓の外に感じながら、憂鬱を噛み締めている。


ー追記ー

未知の人への警戒心・恐怖心は人一倍強いくせに、新しもの好きで、人間に楯を突かず従順な「機械」には滅法弱く、新しい機械(機能)が出ると聞くや眼の色を変えるといった人間離れの傾向もますます強まり、今や日本全国どこへいっても「罪人」と「赤の他人」ばかり、といった様相を呈している。










12 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    政治家の大罪は、妙に寛大な心で見逃しちゃうくせに、庶民の小さな罪は許せないのね
    庶民が嫌いな庶民って、、 なんなんだろ
    天に唾吐くにも似た行為だと思うけど、、情けね、、

    随分前になるけど、飛行機に乗り遅れて日本に遅れて着いた仕事の人を迎えに名古屋まで出向きました
    私が成田まで行けなかったので、人に頼み、新幹線に乗せてもらったのですが、
    お願いした人が クライアントの乗った新幹線の車両番号を知らせに電話をして来ました
    私は移動中で電車の中だったのですが、その車両には私と60代くらいの女性と2人きり
    携帯が鳴ったので、出ないわけにはいかず、ヒソヒソ声で、車両番号だけ確認しました
    ですから、会話は2ー30秒、 切り終わったら いきなり後ろからむんずと手が伸びてきて、
    あんたね、携帯はブリッジで受けるもんよ と。
    見ず知らずの人に手を伸ばして、相手の身体に触ることの方が失礼だと思いますけどね

    その後、クライアント達と東京に入り、山の手線の中で、再び仕事の電話が、これまた
    出ないわけにはいかなかったのと、「白人」と一緒だったら、人々がどう反応するか見たかったので、あえて出て、周りを見回すと、みんなこっそり見つめてるけど何も言わない
    はっきり言ってクソッタレと思いましたっけ
    一億総警察官
    そこには自分が出来ない事を誰かにやらせてなるものかーと言う妬みごころが潜んでいる
    みんな ストレス溜まってるんだなあ と思いましたっけ
    そんなに汲々しないで、みんなで、そこそこ自由にやっておおらかに暮らせばそうやって目くじら立ててぎょろぎょろ犯罪人探すより、よっぽど楽しいはずなのに。
    ましてや 携帯での会話はダメなのに、車内で キャーキャー 今日のランチの話に興じてるママ友達のあの嬌声はいいの?
    携帯使ってなくても、騒音に変わりはない

    うちの実家の向かい側は外人の家族が住んでいて、庭があるので、彼らは当然のごとくバーベキューをやります
    その昔 彼らが初めて バーベキューを催した時、近所中の大騒ぎになり、クレームの嵐
    つまり危険だと、、
    不動産会社の人が一軒一軒回って謝罪してました
    ばっかじゃあないの、と思いました
    その外人の人もへんな国民だと思ったでしょうね
    アホだよねーー焚き火じゃあないんだからさ、


    私は田舎が大好きで
    今や禁止用語になってしまったらしいですが、地方の素敵な場所を「田舎」と愛情を持って呼びますが
    こういう人人は、違う意味で 芯から「田舎モン」であり
    xx の穴のちっちぇー奴なんだと思います。
    要するに自分で見極め、対処する自信がないから、何でもかんでも十把まとめて 怪しい人にしておけば、危険度は減ると。
    そういう感性薄く 勘が鈍いどころか、勘ってものがあることも、そしてそれを使う事も知らない。
    そういう幼稚な人々で溢れかえってる国、そういう人々が顔のない顔で、老いも若いも、男も女も、一斉に下向いてカチカチスマホ叩いてる図は、不気味としか言いようがないです

    暮らしに潤いがないし、芳しい香りもない
    この無味無臭乾燥は、汚臭を放たれたほうがまだマシとおもってしまうくらい、味気ないですね


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    1. こんばんは、Junkoさん。

      公共の場での「迷惑行為」の線引きって難しいですね。何を不快に感じるかは個人個人違うし、一律にこれは迷惑行為と取り締まりの対象にするのもどうかと思うし。

      わたしは音や臭いに非常に過敏で、おそらく普通の人ならなにも感じないようなことに強い不快感を感じてしまいます。
      たとえば歩きタバコとか駐車中のクルマのアイドリングとか。スマホも見た目がね・・・

      結局そういうのも突き詰めていけば想像力の問題だと思います。それとやはり感覚(=センス)かな。「ちょっと声が大きすぎるかな?」とか、「これは迷惑に感じる人がいるかもしれないな」という想像力と自省。

      前にも書いたけど、公園の道に落ちた落ち葉を掃き清めている人たち。「誰かが転ぶといけないから」・・・そういう風になっていくと、もう実用一点張りで、情緒や風情なんてものの入り込む余地はないんだよね。
      京大の立て看板もそうだけど、すべてが安全と効率&清潔だけの世界では生身の人間は生きられない。

      焚き火だって昔は庭のあるうちなら当たり前にやってたんだよね。
      わたしはほんとうに焚き火が好きです。

      そう。自分で自分の感性や良識に従って注意出来ないから、危険性があると思われるものは一網打尽にしてしまう。判断は人に任せる。



      昔馬込のアパートに住んでいたとき、隣にひとり暮らしのおばあさんがいて、夜、眠れずにTVをつけっぱなしでねるんだよね。耳があまりよくないようで、それほどでもなかったけど、わたしはTVの音がうるさいと何度も文句を言った。それは常識に照らしてということではなく、本当に音に敏感で気になって仕方がないから言ったんだけど、そして今でもやはり同じ状況なら言うだろうけど、やっぱり後味は悪いし、今思い出すと悲しい。

      感覚が過敏なのも、淋しくて眠れないお年寄りも、どっちのせいでもないし、どっちも悪くはないんだけど・・・

      わたしは考え方も、また単純に感覚も人とは違うので、本人も周囲の人もとても疲れます。

      だから話は逸れちゃったけど、「迷惑」ってなんだろうって、今、改めて考えてみようと思います。

      Junkoさんや他の人の意見も聞いてみたいです。

      これがわたしのJunkoさんのメッセージを読んで感じたことです。

      話題が逸れちゃってゴメンね・・・

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  2. Ciao Takeoさん
    たしかに迷惑と迷惑じゃないのの線引きは難しいですね
    特に最近のように人々の神経と脳が破壊されて、繊細さなどが全く他者から望めない場合は特に。

    私とTakeoさんの不快に感じる感度は、とても良く似ているとかねがね思っています。
    私もアイドリング不快だし、
    隣の住人の立てる音は、テレビの音はもちろんのこと不快ですし
    歩きタバコは下品でしかないし、
    まあ、ご存知の通り、スマホに至っては、いうまでもなく、
    あんなえげつないもの、今まで見たことがありませんから
    見たくないものを見せられてる訳で、

    迷惑とは、その人が望まない事を人に強制すること
    聴きたくない音を聴かせる、見たくないものを見せる、吸い込みたくないタバコの煙を吸わせる、という事だと考えます
    だから、礼儀とは、聴きたくない音を聴かせない、見たくないものを見る事を強いらない、吸いたくないものを吸わせないようにする、つまり、自分がこれ以上は我慢できないと感じる限界よりも さらにすこし手前の時点で、自分が他者に与えることになる迷惑を制御すること

    公共の空間と言うのは、ある種ニュートラルであるべきだと思っています
    つまり、ゼロの状態 で、プラスでもマイナスでもない
    だから 音で言えば音のない状態
    環境的には、だから ゴミが一個も落ちていない状態
    その音のない状態、ゴミのない状態を各自がなるたけキープしようとするのがそれぞれが公的空間において払う礼儀であると思います
    そう言う努力をしても、音は出る。のですし、ゴミも落ちると思うし、混乱も生まれる
    でも、ゼロと言う基準が根付いたところに生まれる無秩序と 皆がその守るべき基本線を意識もせず、そして心遣いもせず、各々が好き放題に行動した時生まれる無秩序とは、その間にある差は比べ物になりません

    Takeo さんには何度もお話ししてるけど、私が今まで暮らした中で、何よりも好きな場所は、子供の頃に暮らした、釣り舟が出る品川の下町
    あの頃の事を思い出すと、人々はみんなそこそこ仲が良かったし
    もちろん時々 事件はあっても お隣の音が、とか、騒音で、誰かが苦情を言った と言うことはなかったと記憶しているし、子供心にあそこには、心地よい秩序と静寂 そして同じように心地よい無秩序があったことを覚えているのです、もちろん今ほど車もなかっただろうし、コンビニなんてもんもなかったけれど、
    でも、騒音がないと言う事は、、、 あ、ゴミも落ちていなかった
    私は道で石蹴りしてたから、良く覚えていますが、
    そう言う心地よい環境は、単にそれほど交通が進化していなかった、人も今ほど多くなかった、からと言って片付けられることではなく、人々が今の人ほどおばかでもなく、無神経でもなく、彼らの中に真っ当な常識がちゃんと一本備わっていたからではないかと思うのです。
    そして各自の真っ当な常識の間に、生まれる 個人的差は微少だったのではないか?と
    だからそれぞれがそんなにひどく気を使う必要もなかった
    「迷惑」を発生しないようにするなんて事は、全くの日常行為であり、それほど神経過敏に扱うものでもなかったと。

    で、こう書いてるといかにもシンガポールみたいにあれもダメこれもダメのキッツきつの社会みたいに聴こえますが、そうではなく、その上に、人間味溢れるさじ加減が必要になる
    あ、これくらいならいっか、あ、そういう事なら仕方ないよね と情状酌量してあげられる空気
    ダメなものはダメだけど、その基準を機械的にただ遵守するのではなく、人間の情という物で手加減する
    手加減、さじ加減は人間にしか出来ない技です、
    しかしながら
    それを巧みに行う事は、はっきり言って今の人々には無理
    それを行うには、人間の智慧と情とそして深い人間性 そこから生まれる風情 それらが巧妙にバランスを取っていることが必須で、そんな人 います?
    私の子供の頃はいましたよ
    今みたいに無理難題吹っかけるとんでもない人もいたけど、そうじゃない人もちゃーんといた。

    私は、私が感じる迷惑の範疇、迷惑というものの線引きは 実に真っ当で妥当であると自負しています
    それは、私が必要以上に賢い訳でも、優れている訳でもなく、私が単に普通の常識を備えた普通のバランスの取れた普通の人間であるからです。

    そういう社会を作れる人間を増やさなければ、多分人々は迷惑と監視の狭間で いつまでも自分が施す迷惑を迷惑と思わず、にも関わらず、ただ他人には厳しく、意地悪な監視する目を緩めず、互いを批判しあい、責めあって乾いた心で生きて行くのだと思います。
    実に悲観的ですが、そう思わざるを得ないのです。

    そして、それが嫌なら、まずは皆さん 何も言わず、騙されたと思って、スマホを手放す事ですね
    あんなもの持ってる限りは、無理
    あれは人を馬鹿で無神経でエゴイストにし、風情を殺す機械ですから。
    それがわからないで、あんなもの信奉してる限りは、このおぞましい傾向は収まらないと思っています。

    なんだか書いてるうちにやるせなくなってきてしまいました ははは
    寂しいコメントですみません

    あ、ちなみに私が大好きな国があります
    バスク地方です
    昔あそこを車でぐるりと旅したことがあります
    あそこの人々の尊厳に感動しました
    私がこうであるべきと思っている その人間像に極めて近かったのです、

    日本で言う8/15は、ヨーロッパでも祭日で 皆が海に繰り出します
    その日の午後、私たちはホテルに帰ろうと海岸線を走っていましたが、通りかかった海岸がどれもこれも清掃人の人たちがすでに清掃を済ませたかのようなキレイさにびっくりしました
    清掃人など来ないのです
    これがイタリアだったら 海岸はまさにゴミ溜め状態だったでしょう

    彼らは、海にゴミを捨てません
    出したゴミは持って帰るし、タバコも携帯吸い殻を使います
    人々は お愛想も言わないし、作り笑いもしませんが、そんな彼らが笑った時の笑顔の美しさ
    動物も動物としてきちんとリスペクトして飼っていますし、自然をもリスペクトしています
    だから、そこには実に自然で心地よい秩序があるのです。
    ここに住んでみたいと思ったものです。

    他者からその細やかな繊細さを期待できない今、迷惑を受けて 不快な思いを味わいたくなかったら、私が人々から離れることでしか、それは解決できないと思っています
    もはや人など言ってわかる人は少ないですし、自分でない別の人格を持った人間を教育できるものではありませんから。
    ですから、私は、日々人との距離を増やしていきます
    日本に帰ることになったら、過疎地帯の村にでも行きたいと真剣に考えています 苦笑

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      いわゆる「迷惑さ」というのは、どれだけ多くの人にそれが迷惑だと感じられているか?が基準になっているのだと思います。
      だからアイドリングは、一応都の条例で、「駐車中のアイドリングは禁止」ということにはなっていても、みなさほど気にならないからほぼ野放しのまま。
      スマホや屋外(車内)でのパソコン使用やモバイル操作などを不快に感じているのは、世界でわたしとJunkoさんだけですから、そんなものは当然誰も「迷惑」だとは思わない。電車やバスの車内での執拗な「お気をつけください」「ご注意ください」「次はどこそこその次はどこそこに停車します」等々の騒音も、それを「うるさい」と感じる人はごく稀で、多数派の要望によって維持されます。

      十人中ひとりが不快な思いをしているからといって、他の九人に「それ」を止めさせることはできません。

      公共空間はゼロであるべきという意見は同感です。
      何度も書いていますが、道に落ちているゴミも、至る所に貼られている「ポイ捨て禁止」「街を綺麗に!」というメッセージも、街中の「ノイズ」「異物」という点では等価です。だからゼロにしなければならない。「キレイにしましょう」「気を付けましょう」「安全第一」と言ったメッセージは不要でしかない。

      何故、ひとむかし昔の人たちはいまの人たちよりも真っ当な感受性を持っていたのか?やはりそれは金儲けがすべての基準ではなかったからなのかなと思います。馬車馬のように脇目もふらずに稼ぐこと、豊かな消費生活を送ることを至上の価値としたら、当然こころからも、また時間にもゆとりが失われます。

      規則ではなく皮膚感覚で対処してゆくというのは今ではかなり難しくなっているでしょうね。人間の質は明らかに劣化しているから。

      もう皆知っているように、わたしは「普通」の感覚の持ち主ではありません。
      スマホを含め携帯用端末の類は大嫌いだとは言えますが、昨日書いたように、ひとはいろんな止むを得ない事情で音を出し、匂いを出しますから。自分の不快を、強く主張することは躊躇われます。もっとも、それは時と場合によりけりですけど。

      「赤ん坊の泣き声がうるさい」という人が結構いるでしょう。そんなの私たちの子供のころには考えられなかった。

      いずれにしても、人間の英知って、自然と共に生きてゆくことによって養われるもののような気がします。人間という存在も紛れもなく自然素材です。であれば、その感性も自然に因って育まれます。

      それがスマホなどに囲まれて生きているうちに本来の人間性が揮発してしまった。

      大都市に住む人間は与えられた者を「便利」だということで、それらに拝跪していますが、「便利」が主要な価値となった時から人間の心の頽廃が始まったのでしょう。

      スマホの廃止には100%同意します(笑)誰ひとり実行しないでしょうが。

      なんとなくまとまりなく書いてしまいました。先ほどまで外で、樹(垣根)の剪定をやっていて、あののこぎりの音はわたしの神経を逆撫でします。

      意見があれば引き続き書き込んでください。

      よい一日を^^

      PS.

      わたしも過疎の村、打ち棄てられ見捨てられた町に憧れを持ちます。




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  3. こんにちは  takeoさん
    人は、新しいことをする人を、迷惑がりますね。
    田舎で、友人の会社が、女性は、結婚するなら、辞めなきゃいけない
    という、しきたりがあるという。
    そんなの組合でも作って、しきたりを変えたら、と思いましたが
    そんなことする人はいない。
    みんな、渋々、従っている。
    もし、本当に、会社と闘う人は、古い人たちからは、迷惑がられるし
    みんなトラブルが嫌だから、そんなことしない。
    お茶くみも、女性だけ、いまだに、田舎は変わりません。
    コーヒーメーカーとか、置いとけばいいのにね(笑)
    迷惑の話と聞いて、そんなことを思い出しました。
    新しいことをする人は、どこでも、そういう目に合う。
    だけど、誰かがやり始めないと、世の中、変わらない。
    あきらめているというか、男性たちから嫌われたくない、とか、
    女性も、立ち上がれ、と思います。
    自分と違う人は、排除する・・・特に田舎のほうは、まだまだ、ありますよ。
    的外れなコメントでしたら、ごめんなさいね。
    では、また。

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    1. こんばんは、natumiさん。

      コメントをどうもありがとうございます。

      大きくいえばわたしは古いものこそいいもの、古さに価値を見出します。
      けれども、わたしは所謂人の自由・人権を奪う明文化されていない因習というものを嫌います。古い建物は絶対に残すべき、そして女性の人権と自由は更に押し拡げられるべきだと思います。

      わたしは結婚した女性が旧姓を名乗る自由は認められるべきだと思うので、今の制度は改めるべきだと思います。

      男性女性を問わず、誰かの自由・人権は最優先されるべきで、それに加えられる有形無形の圧力には抗っていく人を応援したいと思っています。

      時代は逆行しています。

      昔の映画などを見ていると、困った一人を援けるために「仲間」が団結してストなどして、雇用主に対抗したのですが。

      人の自由を束縛する旧弊な習わしは打破すべきです。それが言葉の本来の意味での進歩だと思います。

      わたしも異端児の嫌われ者ですが、応援しています。

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  4. Ciao Takeoさん
    >十人中1人が不快な思いをしているからと言って、他の九人に「それ」を止めさせることは出来ません
    >「迷惑さ」というのは、どれだけ多くの人にそれが迷惑だと感じられているか?が基準、、

    私は 多数決ほど凡庸でダサいものはないと思っています
    数さえ多きゃあいいのか? と 苦笑
    それなら、大量生産の安売りの商品が一番と言うことになる。

    日本の皆さんが、胸を張って発音する 「民主主義」ですが、 そうやって 胸を張って発音する人に限って、「民主主義」は 多数決だと思っている
    真の「民主主義」とは、まあ、Takeoさんはとっくにご存知だと思うので、わざわざここで言うことではないのですが、
    民主主義とは、少数の、それが1人であっても、その意見を尊重する。
    百人いたら百人 それぞれの意見、意思、感覚を尊重する事
    そのために皆で全体の意見が互いに折り合う所まで、とことん話しあい、詰めること。
    それが、真の民主主義ですよね?
    大勢が感じないから、1人、もしくは少数の人々はただ我慢しなければいけない。なんて それこそ幼稚な社会
    ガキ大将がいて、そこに群がる臆病ものがいて、そう言う図式と同じです
    そうやって大衆を優先して甘やかす事を止めない限り、この図々しい大衆は控えめさを学ばないでしょうし、このおぞましい社会が進化して賢い社会になる事もないと考えます。

    多分、そうならないでしょうね
    何故かと言うと、殆どの人が近代の文明は民主主義だと崇拝し、そしてその崇拝の対象を歪んで把握しているからです。
    穴がずれてるんだから、真っ直ぐな心棒など通りようもない。

    電車のあのアナウンスに至っては、あんだけ人を小馬鹿にした行為はない。
    こんだけ馬鹿にされてるってのに、何も思わない人の感覚を疑います
    まあ、多分 殆どの人の感覚は、今や麻痺し切ってますから、ああ言うアナウンスも聴き流しなんでしょうね
    耳があるのに聴かない耳って、心があるのに響かない心、って、激しく虚無ですよね

    「雨が止みましたので、傘をお忘れなく」から、「 お年寄りや身体の不自由な方には席をお譲りください」 に至っては、傘を忘れたらそれは私の自己責任だし、立ってるのが辛そうな人に席を譲るのは、ごく当たり前のこと、あなたにお願いされたり、指示されることではない
    こう言う阿呆なセリフを滔々とマイクで話す乗務員の方にも哀れさ感じます。
    この人は他に多分なんの楽しみも持ってないのだろうなあと、、
    カラオケでも行って ずっとマイクを握ってればよい。

    野生の動物は 毒を与えたら食べません
    与えられたものをなんでも、不審にも思わず むやみに食べるのは、人間に飼われたり、動物園にいる動物たち
    つまり ジャングルに放っぽりだせば、すぐに喰われるか、入ってはいけない所に入り込み、底なし沼とかで溺れる種
    便利だろうが、スマホだろうが、その危険さに気づかない人間は もはや生き物としての能力、8割方失っている方々であろうと私は思っています。
    だから、私は人から離れます
    無神経で阿呆な人が立てる音は、その音も無神経で阿呆以上にはなり得ないので、
    そう言う音は脳にも 耳にも そして心にも 毒なのです。

    確かに自然と近く暮らしていると、英知も感性も養われます。
    もっとも、私の言う英知とは、絵心があるとか、美しい音が奏でられるとか、素晴らしい文章が書けるとか、そう言う人間としての輝く才能ではなく、生き物としてのごく普通の基本的な本能、の事ですが、
    そしてまた、自然と暮らしていると、いやでも毎日生と死と言うことと向き合わざるを得なくなります。
    去年大家との大喧嘩の元になった、無残にも切られたバラの木は、切られた切り株から芽を吹き出していますし、例年通りに戻ってきたツバメの巣には雛がかえっていますし、その反面せっかく植えた唐辛子の苗が虫に噛まれて倒れて枯れたり、うちの猫に襲われた鳥の残骸を見つけたり、自然と密に暮らしていると、そうやって死も生も同じ尊さと重さで存在していることを身をもって実感します。
    ですから生を喜ぶと共に、死に対しても私は忌まわしいものとか、恐ろしいものとか、言う評価を持つことができません。死も生と同じくらい、尊く美しいものだと言う意識が嫌でも芽生えます。

    スマホはね、あれ、一種のエクソシストですから、
    みんな憑かれているんです
    だから悪魔払いしたら、いきなり脳も心もすんと、詰まった鼻がいきなり通るように、清々しく覚醒するであろうと思っています。が、
    まあ、皆さん なんでまた、私は頭が悪いです。と書いたプラカードを、首から下げてるのとほぼ同じ効果をもたらす、あんなもの、喜んで使ってるのか、、理解に苦しみます

    ああ言うものを崇め奉り、ああ言うものが大手を振って蔓延している限り、希望は持てないです。
    やれやれ、、。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      前に哲学者中島義道の『うるさい日本の私』を読みましたが、鉄道会社にしても、デパートやスーパーでも、中島の抗議が「正論」であることはどうやらわかっている。でも彼らは言うのです、「仮に裁判であなたの主張が認められても放送は止めません」と。
      何故なら車内放送をうるさいという人はあなただけだが、多くの人は放送をしないということは「不親切だ」と感じるから。

      「気を付けましょう」「お忘れ物のないように」「車がとまってから席を立ちましょう」そういう放送がなかったから怪我をしたじゃないか、降りる駅で降りそこなったじゃないか・・・

      日本の社会は「音まみれ」です。

      上に書いたように、ひとりの正論よりも、多くの利用者=購買者の意思を優先させるのが企業です。そこには文化とか、街の景観、静けさなどという視点が入り込む余地はありません。

      お行儀良くして儲けが減るなら、見苦しかろうと、なりふり構わず儲けに繋がることをやる。これが企業の原則です。少なくとも日本のほとんどの企業の。

      金儲けという一元化された価値の下では、「そうじゃないのでは?」という少数意見は黙殺されてしまうのは当然です。

      Junkoさんのいうように「便利」さに依存するということは、生物としての勘を鈍化させることに繋がります。

      人間にとっての最大の罪は「鈍感さ」だと思っています。

      自然界での生死と人間社会での生死とは少し違うように思います。
      肉食動物は草食動物の肉を喰らいますが、それは生きるために必要な殺生です。けれども人間は利益のために平気で人を殺します。

      スマホは、使う人と、俺はいいよ、という人が半々くらいじゃなくて、持っていない、使っていないと真っ当な人間じゃないと思われるくらいにみんながみんな使ってるでしょう。それが嫌なんです。
      それによって人間の愚かしさが可視化された感じです。

      何も考えない、疑わない、批判的な眼差しを向けない、多くの人がいいと言っているんだからそれがよさの根拠だと考えて受け容れる・・・

      間違っていても自分の感受性に誠実に生きたいですね。異端であることは免れません(苦笑)

      いつも考えさせるコメントをありがとう。

      いい一日を。

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  5. 勲章なんて、もらうようになったら偉い人は終わってる。
    幸福の国なんて、アピるようになったらブータンは終わってる。

    田舎は、静かだとか、スローライフだとか、自然だとか。
    終わってなきゃいいけど、って思う!

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    1. こんばんは、青梗菜さん。

      はは、確かに。

      なにかこう、胸を張り始めたら堕落のはじめだなと思います。
      自分にとっての価値は(パーソナルなものは別にして)宣伝で教えられたもの(場所)にはないですね。
      自分で見つけてこそ自分の価値だと思っています^^

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  6. Takeoさん、ボンジョルノ
    それは、枯葉をそのままにしておいて、誰かが転ぶと面倒くさいことになるから、さっさと片付けてしまいましょう。と 同じ発想ですね
    だいたい、自分の不注意で転んでおきながら、人のせいして、おまけに治療費までせしめようという、卑しい人間が多過ぎるのよね
    電車のアナウンスがなかったから、大事な傘を忘れた
    どうしてくれる。と 怒鳴りこむ、まあ、日本だったらありそうだけど、そういう人間の吐く息のドス黒ささえ見える気がします。

    ローマは、本当にひどい無法地帯で、公共工事もおざなりなので、雨が続いたりすると、道路にポコポコ穴が開きます
    工事請負時の予算から、実際の経費を浮かせて、それで更に儲けようとする工事会社が、道を舗装するときに使う砂利とセメントをケチって少なく使うからだそうです。
    つまり 石みたいな道路じゃなく、豆腐みたいな道路って事で、
    それに引っかかって転んで 全身不随になった人のローマ市からの保険が下りないというニュースも聞きました
    道路に空いた穴を放置する事と、電車で傘を忘れないようにと、うるさく警告するのとの間には、深い谷ほどの違いがありますが、どちらも人間の 良識(イタリアでは これを ブオン センソと言います、イタリア語の方が、妙に言い得てると思いますが、笑) の欠如が生んだ おぞましい状況だと思っています

    誰かに歩く道筋を払ってもらわなくても、最低限の注意を払って歩くのは、生物の最低限の本能ですが、道に大きく空いた穴は、もはや本能で回避できる類のものではなく、むしろ「罠」です
    特に雨が降ってそこに水が溜まると、普通の浅い水たまりか、ひどく深い穴なのか、外目では見分けがつきません

    しかしながら、私はどちらを選べと言われれば、危険がいっぱいで泥棒もうようよしている、よって常に、慎重に 自分の五感 プラス 第六勘までもフルに始動させて暮らさなければいけないローマを選ぶでしょう
    私にとっては 便利とは、甘い罠の匂いがする、むしろ怪しいものであり、
    そんなものを享受し過ぎれば、私の勘も感性も激しく鈍ります
    動物園の檻の中には、三食昼寝付きであっても、死んでも入りません

    先日 授業の前に私が携帯を取り出していたら、横に座っていた女子学生に、
    わーーー懐かしいーー 見せてください と言われましたっけ 汗;
    スマホはバカで無神経になるから、使わないほうがいいのだよと私は事あるごとに言います
    私は、大学の年下の友人たちに、そのうち 「踏みスマホ」やるから。と告知しています
    彼らは日本語を専攻しているので、日本史も学んでおり、よって踏み絵を知っています。笑
    スマホ 踏まなかったら、谷には落とさないが、付き合わないからと、
    えーーそんなの人種差別じゃないーと言われ、はいそうです と答えます

    私たちが、真っ当な人間だと評価しない、つまりスマホなんかに踊らされてる人々に、別に何と思われようが、構わない、と思いません?
    勝手に思えよ、と。
    「真っ当でない」人々に 真っ当と評価されてもねえ、嬉しくもなんともないですし、
    朱に交わって紅くなれと言われても紅くなれませんから
    勝手にやってよ と思います

    今日は久々に良いお天気です
    そっちはもう午後ですね
    穏やかな夕暮れ時をお迎えください

    ブオナ セラータ

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    1. はははは(笑) 踏みスマホ。いいねえ。でもそういう運動があってもよさそうなもんだけどそういうニュースは聞いたことがないね。
      スマホはバカで無神経になる(笑)同感です。

      ローマはオリンピックを辞退したでしょう。それでローマ市民は良識があるなあと思っているんだけど、そんなにひどいですか?
      ローマや他のイタリアの都市の公共交通の放送はどうですか?
      「お忘れ物にご注意」「走行中の座席の移動は危険ですので車がとまってから・・・」「エスカレーターにお乗りの際はベルトに捕まり中央に立って・・・」「次の駅では右側のドアが開きます」「列車とホームの間が広く開いている場所が御座いますのでご注意・・・」やはりそんな感じですか?
      日本では電車では日本語と英語のアナウンスが流れますが、愛知県の友達のはなしでは、その他中国語、ポルトガル語(?)が続くそうです。

      昔だって転ぶ人はいくらもいたけど、注意喚起が足りなかったからだと怒る人はいなかった。全て自分のせいだった。

      日本の企業って労働者を奴隷のように死ぬまでこき使うくせに客のクレームを何より怖れる。といって中島義道のような類の苦情は苦笑して無視される。

      もう何をかいわんやですね。

      踏みスマホ、是非やってください、わたしも参加したいところです!(笑)

      ええ、キチガイだと思われても構いませんとも!

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