2018年5月28日

産経新聞掲載「モンテーニュとの対話」エリック・ホッファーについてを読んで、感じるままに


数日前、このブログに時々コメントを残してくれるYさんから、四月二十五日付、産経新聞の文化面に、エリック・ホッファーについて書かれた記事があるから、それについて感想を聞かせてくれないか、と言われた。

しかしよくよく考えるとへんなものだ。ふつう「この本を読んでどう思う?」というのが、本来の(?)感想であって、誰かが或る本について感想を語っているのを読んで、それをどう思うか?というのもやはり「感想文」に入るのだろうか?
いやいやYさん、別に嫌々書いているのでも、書くのを渋っているのでもないのです。つまり「何々を読んで」と題された文章を読んで書くこととは、いったいなんだろうと考えてしまうのです。

では能書きはこのくらいにして・・・



簡単にエリック・ホッファーについて紹介しよう。
1902年に生まれ83年に没したアメリカの哲学者・思想家である。といっても、アカデミシャンではなく、港湾労働者(=沖仲仕)として働きながら、自分一人で思索し、本を読んで、今日なお読み継がれるいくつもの著作をものした人である。

なぜYさんが、わざわざわたしにこの記事を薦めたか、それは、これを書いた産経新聞文化部の、桑原聡氏が目を留めた『エリック・ホッファー自伝』の中のエピソードが、わたし好みのものではないかと思ったからではないだろうか?

『自伝』とはいえ、書かれているのは、39歳頃までのことで、沖仲仕として働きながら、貪欲に読みかつ書いていた時期までの27のエピソードで構成されており、桑原氏は特に17番目の「柑橘類研究所」という話に大いなる興味を示す。

以下桑原氏の文を引用する

大学の教科書を読み込んで、化学、物理学、鉱物学、数学、地理学を独学でマスターした彼は、植物学にのめり込んでゆく。30代前半のころだ。ラテン語やギリシャ語が頻出する教科書に手を焼いた彼は、古本屋でドイツ語の植物用語小事典を手に入れる。どんな質問にも答えてくれる小事典を不思議な賢人のように感じ、常に持ち歩くようになっていた。
ある時、貨物列車の屋根の上で、植物学とは関係のない思想の難問について考え続けていた彼は、無意識のうちにナップザックに入れてある小事典を取りだそうとしていた。彼はこう記す。
「どんな問題であれ、つねに答えを知っている人間がそばにいたら、自分自身で深く考えることを止めてしまうだろう。そうすれば、私はもはや本来の思索者ではない」
不愉快な真実に気付いた彼は”賢人”を風の中に放り投げる。
私はこんな夢想をした。
スマホを使って解らない言葉や地名を確認しながら自伝を読んでいた人が、この部分に目を通したその次の瞬間、スマホを風の中に放り投げる。ああ、そんな光景を見てみたい。
昨年の夏、この場で「スマホなんか大嫌い!」と題して書いているので繰り返さないが、食事スマホや排尿スマホが普通の光景となるなど、マナーは悪化する一方だ。
「誰にも迷惑をかけていない。ほっとけよ」などと言うなかれ。少なくとも私の目は汚され、気分は害されている。

そして桑原氏は、自分はスマホこそ持っていないが、ものを書くとき、ついインターネットに頼ってしまう、インターネットがなかった時代に書かれたものに比べて、その後の文章はいかにも軽い、と。



思索者とは、決して何らかの「答え」を捜し求める者ではない。考える人、思惟する者、それが思索者の謂である。大切なのは問い続けることであって、答えらしきものを得て事足れりとすることではない。
人に答えを教えてもらうことは、考えないことに等しい・・・

と、まあ説教めいたことはどうでもいい。

この文中の白眉はなんといっても空にスマホを高々と放り上げる=放棄する場面である。世界中の人たちが、一斉に、スマホを空に放り投げる。踏みつける。火を放つ。ローラーで押し潰す。
嗚呼、そんな風景が見てみたい。その時こそ、人びとは失われていた本来の深い人間性を取り戻すだろう。

何故なら「答えは風の中に」こそあるのだから。



尚この文の後に、ホッファーとモンテーニュとの出会いについて書かれているが、わたしにはさほど興味深いものではなかった。

箴言集『魂の錬金術』から、いくつかのアフォリズムが紹介されている。

「感受性の欠如は、おそらく基本的には自己認識の欠如であろう」
「自己認識の欠如は、しばしば粗暴さと不器用さとなって表れる。それに気づかないとき、人は厚かましく、粗暴に、そして不誠実にさえなれる」
「われわれは自分自身を見通すときにのみ、他人を見通すことができる」

そしてこのコラムは次の一文で閉じられている。

この世界にはびこる悪の大半は、つまるところ、ひとりひとりの人間の自己認識の欠如に由来する。「沖仲仕の哲学者」はもっと読まれるべきだ。

わたしは「スマホ」に関する部分以外、特別耳新しいことが書かれているとは思わない。
かつてホッファーの箴言集を読んだ時に感じた「ツマラナサ」は、畢竟、人は自分自身を認識できるという彼と、「私とはひとりの他者である」(ランボー)というように、自分がナニモノカを知ることは不可能であると感じているわたしとの埋めがたい認識の乖離故だろう。

自己が自己を正しく認識することはできない。何故なら自己(わたし)とは、それ単体で存在するものではなく、諸々の関係の渦中で発現するものだと思っているから。

自己認識が欠けているから感受性が鈍く、粗暴で、不誠実だと言われても、またそれがないから世の中から悪が絶えないのだと言われても、わたしはただ困惑して肩をすくめることしかできない。なぜならわたしは未だに自分がナニモノカがまるでわからないでいるのだから・・・











8 件のコメント:

  1. ありがとう。Nicoさん。

    今度の木曜日に感想を述べたいと思いますが、なんせ頭が悪いからNicoさんにはすこぶる物足りない“感想”になるはずです。

    何度も読み返しているうちに、少しづつ感じることがあるような、無いような、そんな情けないあたまなので“無視するような”態度を取りたくなりますが、それでは自分の“成長”は無いので“努力”してみます。

    この文章の中の“白眉”は「答えは風の中に」、ですね。

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    1. こんばんは、yy8さん。

      いや、おもしろかったですよ。ホッファーに関することでも、モンテーニュでもなく、この記事を書いた当人の「スマホ嫌い」のところが一番気に入りました。
      普通の新聞のこの手のコラムってただ優等生っぽいことしか書かれていないでしょう。書き手の感情、喜怒哀楽、好き嫌いがストレートに伝わってくる文章は新聞ではなかなかお目にかかれません。(と、いえるほど読んでませんが)

      ホッファーが貨車の上から辞書を投げ捨てる場面と、人がスマホを風の中に放り投げる夢想のオーバーラップがいいですね。

      昨年書かれたという「スマホ嫌い」も図書館で探して読んでみたいと思っています。

      あたまの良し悪しは関係ありません。要はその人の言葉でその人の気持ちが表現されているか、それだけです。わたしが書くこともそれだけです(笑)

      おもしろい記事を紹介していただき、ありがとうございました^^

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    2. 「スマホ嫌い」を読んでみようか、と言っていたので産経新聞社に問い合わせてみたら、早速返事をもらいました。

      その記事は昨年の8月4日付けのものだそうです。
      私も図書館に行って探してみようと思います。

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    3. こんばんは、yy8さん。

      そうですか。8月4日、わたしの誕生日の前日ですね(笑)
      是非読んでみたいです。^^

      情報をありがとうございます。

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    4. 8月5日のNicoさんの産声が聞こえました。

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    5. あははは(笑)

      なんかしんみりしちゃいますねえ。誰もそうだろうけど、人生はままならないものですね。幸せを感じることの出来なかった人生だったような気がします。

      今夜のyy8さんとJunkoさんのコメントが共に期せずして誕生ということだった。不思議な偶然で胸を打たれます・・・

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  2. 予定の木曜が今日(金)になってしまいました。
    Nicoさん独自の表現にいつも惹かれていますが、ここでは「自己とは諸々の関係の渦中で発現するもの」という表現に考えさせられる何か?があります。
    無重力の宇宙遊泳を思い浮かべてしまいました。
    手足をバタつかせても、一向に進めない。
    地面を蹴るから進める。
    そのように、自己の認識も他者の存在があるからと。

    他者次第で自己認識は変わるのかもしれません。

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    1. ああ、そういう表現はわかりやすいですね。
      多分そういうことでしょうね。地面を蹴るから進むことができる。
      人間て、他者との関係の「反作用」の集積かも知れませんね。

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