2018年5月26日

ふと思う


「健康な障害者」という表現は矛盾しているだろうか?
「健康」とはいったい何だろう?『ジョニーは戦場へ行った』のジョニーは、戦争で、手脚と、目と、耳と、鼻と口を失い肉の塊となったが、しっかりした意識を持っている。 彼を「不健康」であると言えるか?手脚がないから?顔がないから?

確かに「病んでいる」時は「健康」ではない。しかし「障害」は「病気」だろうか?



「どうせわたしはダメな精神障害者ですから」ということは許されるだろうか?
わたしは精神障害についてダメと言っているのではなく、わたし個人の属性について述べているに過ぎない。
精神障害者であるわたしが「どうせ精神障害者ですから」と放言する時、それは差別に当たるだろうか?



ひさしく人間と言葉を交わしていないと、自分が「ニンゲン」であるという意識も次第に薄れていく。 引きこもりの人たちはどのように自らの(「人間としての」に限定せず)アイデンティティを保持しているのだろう? わたし自身は既に半分以上「ニンゲン」としての自覚を失っている。



わたしが「町に行くにはどうしたらいいですか?」と尋ねた時に、ここから町へ行く道筋を説明する以上のことは誰も教えてはくれない。
わたしはそれでもなお訊き続ける
「町に出るにはどうしたらいいですか?」






2 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    まず「健康」とはどういう状態を指すのか?
    それを説明することが私には出来ません
    私は、完璧に「健康」な人などいないと思っています
    もし、自らを「健康」だと言い切れる人がいるとしたら、それは私は絶対に死なない。と言っているようなもので、それはある種の幻想です。
    皆、「健康」であり「また障害者」であるのではないでしょうか?
    私は、とりあえずなんの不自由もなく暮らしていっていますが、それは単に疾患もしくは障害が表に現れていないだけで、私は私の身体の中に、そして精神の中にある障害、および疾患を感じています
    つまり これまた認識の問題ではないかと考えるのです。
    認識してるかしていないか?
    つまり個性の一部のようなものだと、
    しかしながら、この言葉は私がその見えない障害にまで面と向き合ってはおらず、その障害が私の生活になんかしらの悪影響を与えていないから、こうしてのうのうと言えることだとも認識しています。
    ただ踏み込んだことのない世界を如実に語ることは不可能です

    「どうせ私はダメな精神障害者ですから」
    「どうせ」と「ダメな」を取ってくれれば、問題ないと思いますけど
    どうせは、卑下を感じさせ、その時点で何かを諦める、そのエクスキューズに聞こえ、
    この言葉は、誰が発音しようが、あまり快く聴くことができません
    自分が自分を認めてあげないでどうする?と思うからです
    いつも言ってますけど、、苦笑
    自分にさえ認めてもらえない自分ってかわいそうじゃあないかと、、。
    私は何があっても一生懸命生きている自分を、へこたれないでエライね、と思っているからかもしれません
    みんなそれぞれ、 スマホを濫用しているおバカ丸出しの人たちでも、多分彼らは彼らなりに一生懸命なんだと思うのです
    彼らには認識能力がないので、そこが彼らの大きな問題であり、それこそ立派な障害です。

    「町に出るにはどうしたらいいですか?」
    まず町に行きたいと思うこと
    そうして
    足が痛くならない履きやすい靴を履いて、家のドアを開けて家の外に出ること
    そうしたら町とあなたの間に一本の糸が張られ、道など歩きながら見つかります
    町までは、そんなに遠くありません


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    1. こんばんは、Junkoさん。

      「ふと思う」・・・「なんとなく思う」ということで、別に深く考えて書いたものじゃありません。

      ジョニーの話がわかりにくければ、たとえば動物園のライオンやゾウはどうでしょうか?今回の健康診断でもまったく異常なし。では檻の中のライオンやゾウは本当に健康なのか?

      囚人はどうでしょう?やはり心身ともに異常なし。ではその囚人は健康と言えるのか?

      これはJunkoさんへの質問ではなく自問です。

      わたしがよく「人間の条件」とはなにか?と考えるように、「健康」とはどういう状態をいうのか、まだよくわからないのです。

      わたしは生き物を周囲との関係性の中で捉えて考えるので、どのような環境下で、どのような関係の中で、人は健康たりえるのかと考えてしまいます。

      >私は私の身体の中に、そして精神の中にある障害、および疾患を感じています
      つまり これまた認識の問題ではないかと考えるのです。

      わたしは自己認識には他者という鏡が不可欠だと思っています。わたし単独ではわたし自身を認識することはできないのではないか、と。



      Junkoさんにとっては「障害」云々よりも、卑下すること自体が問題ですね。
      人は誰でも(?)シンメトリーではありません。わたしも「自分が自分を認めてあげないでどうする?」という言い分はよくわかるのです。わかるし、自分を認めてあげることが出来たらどんなに楽だろうと思います。けれども昔から自分を認めてはいけないと思い続けてきました。それは自己欺瞞だと。わたしは「ダメ人間としてのアイデンティティー」の上にしか生きられなくなっているようです。
      わたしがわたしを(どういう形であれ)認める、容認するという場面を考えるとなんとなく滑稽です。

      >私は何があっても一生懸命生きている自分を、へこたれないでエライね、と思っているからかもしれません

      Junkoさんにはそういう資格があるでしょう。けれどもわたしにはとても同じことは言えない。

      卑屈になっているというよりも、陽の当たらない隅っこをトボトボと歩いているほうが性に合ってるんです。

      「真っ平御免と大手を振って
       歩きたいけど 歩けない
       いやだ いやです お天道様よ
       日蔭育ちの 泣き所
       明るすぎます おいらには」(「傷だらけの人生」)鶴田浩二

      これがまぁ、わたしのテーマソング(のひとつ)です。



      >「町に出るにはどうしたらいいですか?」
      >まず町に行きたいと思うこと

      だとすると、
      わたしには生きたい町が無い・・・少なくとも見つからないのですね。

      いつも丁寧なコメントをどうもありがとう。

      Have a good weekend!







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