2018年5月13日

正身のところ・・・


坪内祐三は或る対談で、「完璧な本なんて書けるわけがない、きわめて不完全なものであっても、とにかくひとつの形として出す。そこに読み手が、自分にとって不完全だと思われる部分をどんどん足して行ってくれればいい。そうやって読者が補足・補填していくことで本は成り立っていると思う。読み手がどんどん広げていけば・・・」というようなことを言っていて、まったく共感する。

どれだけ多様な解釈が成り立つか、それがわたしにとっての「いい本」の定義だともいえる。



詩人、天野忠については、山田稔の『八十二歳のガールフレンド』ではじめて知り、同じ著者の『あ・ぷろぽ それはさておき』に引用されていた或る詩を読んで、是非この詩人の他の作品も読んでみたいと思った。

その「或る詩」


「新年の声」

これでまあ七十年生きてきたわけやけど
ほんまに
生きた正身のとこは
十年くらいなもんやろか
いやあ
とてもそんだけはないやろなあ
七年くらいなもんやろか
七年もないやろなあ
五年くらいとちがうか
五年の正身……
ふん
それも心細いなあ
ぎりぎりしぼって
正身のとこ
三年……

底の底の方で
正身が呻いた。

── そんなに削るな。





七十年生きてきて、本当に生きたと言えるのは、十年、いや、七年、五年、三年・・・うーん・・・

わたし自身、これまで54年生きてきたが、少なくとも、ここ6~7年はとても生きているとは言えないと思っている。繰り返しになるけれど、2009年に6年間親友として一緒にいてくれた人に離れられてからは、全くの蛻の殻といっていい。

上に書かれている詩のように、自分の年齢と、正身生きた年を分けて考える人はあまりいないだろう。
五十歳なら五十年間生きてきたというだろうし、七十歳なら七十年生きてきたと主張するだろう。

けれども詩は「理」ではない。「ああ、なんとなくわかるなあ」という人がいればそれでいい。

わたしに関して言えば、存在していることと、生きることとは違うのだ。存在が充たされた状態、それがわたしにとっての「正身」なのだと思っている。そしてわたしは既に自分に与えられた「正身期限」がとうに過ぎていることを、今切実に感じている。







17 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    天野さんって ほんとーにかわいい!
    「ふん 」がいい!
    「やろか」 「やろなあ」もいい!
    基本私は関西弁のが、東京の言葉より好きです
    笑う顔まで想像できちゃう
    こういう人が居たというだけで、ちょっと元気が出ますね
    最近ステキな人いないし、、。

    私、前に生まれたくなかったって言ったでしょ
    随分前から気づいてるけど、私子供の頃はちゃんと生きてなかった気がします
    いつも違うこと考えてたし、想像の中にいたと言うか、、
    学校も勉強も嫌いだったしね 苦笑
    嫌だ嫌だ ああ、面倒臭いと思いながら生きてた気がします 変な子供!

    私が生き始めたのは、働き始めてから、、かな。
    働いてお金を頂くってのは、嫌いじゃあないんです
    で、まあ、くだらない事に拘ってましたから、いろいろすったもんだし、泣いたり怒ったり、悩んだり、嘆いたり、でも苦しむって事は生きるって事なんだなあと今になって思います
    こう大地に爪を立てるような、、ね そういうのもいいよねと
    野原でスキップもいいけれど、、。 笑

    それが終わったら、何かが抜けたみたいで、ひどく気が楽っちゃあ楽で、要するに執着するものも失うものもないからだと思うけど、
    私もね
    正身期限切れてると思いますよ
    こう言う心境にたどり着いたら、それはもう人生これで良し。って事なんだと思うのよね

    惰性で生きてるって言うか、慣れの惰性じゃなく、今まで走って来たその勢いその惰性
    車 エンジン止めてもしばらく走ってるじゃあないですか
    ああいう感じ、、エコですね ははは

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    1. こんばんは。

      わたしは東京生まれだけど、東京弁っていうのとも違って、標準語ってなんだか母国語という土着性が感じられないなぁって、天野さんの詩を読むと思います。
      東京ってやっぱり人工都市なんだな。

      方言ていいなあと思います。話し手が身近に感じられる。生きた存在として感じられるという気がします。

      喜・怒・哀・楽、どれも人間の感情で、どれが欠けてもやはり十全じゃないですね。怒りや憎しみはない方がいい・・・とは思うけれど、それがない人生というものはおそらく存在しないのでしょうね・・・難しいです。

      誰の言葉だったか、「生命として生きよ」という言葉があって、ああ、それができてないなぁと。

      わたしは高校卒業までの17年間、それに40代に親友がいた6年間、それからまだ何年かは「正身」としてカウントできそうです。だからもう充分かなぁとも思ったり。

      正直なところ、世の中がこんなに変わるとは思ってもみなかった。
      本音を言うと、自民党政権が消えるより、デジタル・ワールドが無くなって欲しい。安部とスマホならスマホに消えて欲しい。

      でも安倍はいずれ消えるけどテクノロジーは人類が存在する限り共に成長していく。独裁者はギリシャ・ローマ時代、古代中国にもいたけど、ITイノベーションはついこの間、はじめて人類が出会った出来事だからね。

      そういう意味でわたしは、もう、遅れた、取り残された人であるし、それは自分で選んだことなんだけど、このマテリアル・ワールドは日々厭世観を募らせます(苦笑)

      だからカメやカエルやネコのように、人間以外の生物がいること、
      「猫にスマホ」的な世界が存在することが、わずかな救いです。

      よい日曜をネ^^

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  2. ITってのは、有史以来、初めての事象で、
    何が起きているのかは、誰も知らないわ。

    スマホとの関わりは、僕なら、
    スマホごときで失う幸せなんて、
    ―― そんな幸せは、嘘なんだから、手放してもいいかもよ。
    スマホごときで得られる幸せに等しい、と思ってる。
    ―― そんな幸せも、嘘なんだから、
    手に入れてもしかたがないかもよ。

    ノイズが多すぎて、
    コミュニケーションの感度を上げられない、
    ってのは強烈に感じてる。
    世の中、いやなことが多すぎるw。
    仕事も、人も、空間も、
    そこで流通しているフレーズも、
    感度を下げて、嫌悪を感じないようにしないと、
    やってられない。
    鈍感にならないと、正気を保てないなぁ。

    僕は生まれてきたほうがよかったのか、
    生まれてこないほうがよかったのか、
    疑似問題なんだろうけれど、逃げ腰で、
    不合理に帰依する、と答える♪

    苦しいのは、
    合理性は、自らを壊すときにも合理性を求める、ってことで、
    つまり、僕は、そこそこ合理的な考えをする人なんだ。
    まあまあ人並みには論理的な人なんだわ。
    そんな人が、合理の破壊や論理の破綻を目指す、ってこと。
    鈍感にならないと、正気を保てないのが、
    僕の敏感さなんだ♪w

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    1. こんばんは、青梗菜さん。

      「××ごとき」という断定、それが多くのひとにとってどんなに取るに足らないものであっても、「それ」が、ある人にとって何を意味するかは、傍からは到底推し量ることは出来ないと思います。
      「××ごときもの」があるのなら、同じように「ごとき」とは口が裂けても言えないものというものもあるのでしょうか。そして「ごとき」と「ごとき」ではない、端倪すべからざるものとの「境界」はどこにあるのか?

      昔のブログにも書いたけど、自分の心=感受性を自分でコントロールできる。眼を閉じ、耳を覆うように、時と場合に応じて自在に心を開閉できるのが都会人なのかもしれません。
      都会人というのは都会に住んでいる人ということではなく、都会に適応できる人という意味で。

      わたしは感じたくないものを感じないで済むためには、物理的に「ノイズ」から遠ざかることしかできません。そのただ中にいて、尚平静でいられるという能力はわたしには備わっていないようです。

      生れてきた方がよかった、生まれない方がよかったなんていうのは、畢竟個個々人の主観に還元されるもので、そもそも「理性的思考」の対象にはならないと思います。

      前にも言ったけど、わたしは鬱病や引きこもり、社会不安障害などの人たちのブログをフォローしているけど、彼らが、

      「ああ、失敗した、失敗した・・・生まれてきて」
      と書いた時に、いったい誰がその考えは間違っていると言えるのか?
      仮に間違っていたとしても彼は正しいのだとわたしは思っています。

      ある哲学者が故人に向かって言った言葉、
      「彼は常に正しかった、間違っていた時でさえも」わたしも同じ考えです。

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  3. >どれだけ多様な解釈が成り立つか、それがわたしにとっての「いい本」の定義だともいえる。
    うんっw。
    誰かが書いたもの、なんてのは、書かれた直後から、
    「こう解釈しなければなならない」という性質が奪われる。
    音楽、絵画、映像も同じ。
    言ってしまった言葉も同じ。
    自分にとっては、言えなかった言葉、ってのも、
    同じになってくんだろう。

    どれだけ多様な解釈が成り立つか、それは「いい本」の定義であり、
    「いい本」は、自ら「いい本」の定義を促してくる。
    読み手に、自分で解釈しようとする気にさせてくれる。

    感受性の感度が上がるんだ♪

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    1. 余りに自分の波長とは合わないという本もあって、そういうのはそもそも読めないけど、逆にあまりに自分に似過ぎているのも物足りないというか。

      そうそうその通り」だけで終わってちゃつまらない。

      「教えられた」という後味よりも、「考えさえられた」という本が好きです^^

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  4. Ciao Takeoさん
    「都会人」時と場合に応じて自在に心を開閉、、。してませんよ
    都会に適応。 してませんよ
    ただただ 不感症になる、感性や神経を麻痺させているのだと、つまり閉じっぱなし
    東京に行って、電車に乗って、虚ろな空気を漂わせながら スマホを見つめている人々を見て そう思います
    魂 不在
    いきなり質問すると (それが この線は どこどこ駅に止まりますか?でも) 顔に平手打ちでも喰らったような不快な表情を見せます
    私からすると、やっぱり普通ではない。ので ローマの怪しい地域を歩いているよりも 妙な不気味さ感じます

    「彼は常に正しかった 間違っている時でさえも、、」
    私は 商人の娘ですので、正しいとか正しくないと言うよりも、必要か必要でないかで考える癖がついています
    ので、間違えることは 非常に必要なことであると思っています
    だから ウェルカム 笑

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    1. そうなんだろうか?
      魂は不在?では彼らの魂はどこにあるのだろう?
      彼らはいつ魂を持つ人間になるのだろう?

      なんだかそういう奇妙な質問さえ浮かんでくるのです。

      間違えは「嘘」と似ていて、それは正しい答えではないんだけど、人間が生きてゆくうえでは欠かせないものだと思います。
      大きくいえば、文学も「嘘」です。

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  5. 言い忘れました、、
    私がtakeoさんのブログが好きで、いつも更新を楽しみにしているのは、Takeoさんの文章が「考えさせてくれる」文章だからです

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    1. これはこれは、わたしもJunkoさんの応答をたのしみにしています。
      考えさせるのもいいけど、たまには心にしみるようなものも書きたいと願っています。もともと知よりも情を重んずるところがあるので。

      書いたことを読み手がそれぞれに真摯に受け止め、考え、また感じてくれていることに感謝しています^^

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  6. アトリ姐ちゃん2018年5月14日 21:36

    まさにガルシア・マルケスの「この瞬間に存在しているという確信」という言葉が
    生きた正身を表してるように思えます。
    ほとんどは意識は過去や未来に向いてますが、どれだけ生きてるその瞬間を自覚できるでしょうか。
    この針の先よりも小さいピンポイントの瞬間にだけ真実と永遠があるのだと思います。

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    1. こんばんは、アトリ姐ちゃん。

      そのとおりですね。確かに納得します。
      意識が今このときを捉え、見つめる瞬間。それが本当に生きている時間といえるでしょうね。

      100%同感です。

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    2. アトリ姐ちゃん2018年5月16日 0:33

      さっきいい言葉を見つけました。

      Life is a matter of focus.

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    3. こんばんは、アトリ姐ちゃん。

      この場合のフォーカスは「愛すべき対象」と言ったような意味でしょうか。
      なにか「これが好き」というモノでも人でも(動植物でも)存在すること、その存在によって人生が支えられる、という風に解釈しました。

      仮にこの解釈に従えば、わたしには、フォーカスの対象はやはり「愛」ということになりそうです。男でも女でも、若くても老いていても、「愛すべき誰か」こそ、わたしにとっての「マター・オブ・フォーカス」だと思います。

      もし間違った解釈だったら遠慮なく教えてくださいね^^

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    4. 追伸

      Life is a matter of someone (something) to focus.

      という感じでしょうか。

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    5. アトリ姐ちゃん2018年5月16日 17:20

      Life is a matter of focus.
      人生は何に意識をフォーカスするかによって決まる
      というような意味ですよね。
      どの対象にフォーカスするかということも大切ですが、
      同じ対象を見ていても、同じことを体験しても、
      人によって、それを解釈する可能性は無限大にあると思うのですよ。
      無限大の可能性から、自分はそこから何を引き出して何にフォーカスしているか、
      どこに意識のアンテナを向けているか、それによって、
      自分の人生の質は大きく変わってきます。
      願わくば、自分の人生の貴重な残り時間、
      自分のソウルが豊かになるような物事にフォーカスしていたいものですね。
      フォーカスの対象が愛であるならば、最高に豊かな人生となるでしょうね。

      よく別の記事でスマホの話が出てきますが、私もスマホは持ってません。
      一番簡単なガラ携だけですが、それも滅多にスイッチオンしてません。
      そもそも電話が嫌いですから。
      何で道を歩いてる時にも通話しなきゃいけないのか。
      歩いている時だけでなく、ジョギングしながらずっと
      イヤホンマイクで話してる人が多いのには驚きます。
      携帯が登場する前、独り言を言う人をよく見かけたものですが、
      携帯が登場して以来、見かけなくなりました。
      喋る欲求が満たされてるのでしょうね(笑)

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    6. こんばんは、アトリ姐ちゃん。

      人間の一生なんてあっという間ですから、出来れば美しいものに目を向けて生きて行けたらと思います。けれども現実にはなかなか難しい。世の中には醜いものの方が圧倒的に多い。それでもなお、その中から少しでもうつくしいもの、心を和ませてくれるものに触れていたいですね。

      愛する人、(これは恋愛的な意味に限定されません)がいて、そして愛されているという実感が持てれば素敵ですね。

      ぶつぶつと独り言を言いながら歩いている人は、ひょっとしたら、心の病を持った人かもしれません。わたしもそういう人をこれまでなんどとなく見てきました。道で、或いは精神科の待合室で、でもわたしには白昼、或いは夜間、スマホを凝視して魂がないみたいに歩いている人たちの方が遥かに不気味です。前者は人間ですが、後者は一体何なのか?ははは。

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