わたしが前のブログを中断したのは、現在わたしの書く物が、読み手にとってほとんど理解不能の領域に入り込みつつあるという感覚からだった。
そして相変わらずわたしは、自分の納得のいく文が書けていない。
つまり「聴き手」が耳を近づけチューニングを合わせようと努力しても、最早そこから流れてくるメッセージが、音としても、また意味としても明瞭に伝わらない状態になっていることを感じ始めている。
それはなぜか・・・
徒然にツイッターの投稿を覗いてみる。別にツイッターである必要はないのだが。
そこには日本の美しい風景が写された写真が掲載されている。
それらを見ながらわたしは訝る、「ではわたしはどこにいるのか?」と。
わたしはいったいどこに、どのようなかたちで存在しているのだろうか?
わたしにとって、世界はとうに滅びたはずなのに、相変わらずインターネット上では、
まるで世の中は昔からなにひとつ変わらずに、元のままの姿でそこにあるように見える。
「わたしはナニモノか?」という問いには、「あなたは○○である」と応答してくれる他者が必要になる。
そして現在、わたしが「ワタシハナニモノか?」と問う時、そこにはそもそも自分が「人間」(或いは「ヒト」)であるという前提すら欠いている。
誰であれ、人は外部との関係性を失った時に、自分をも失うのではないだろうか?
「わたしは誰々の母である」「わたしは誰々の夫である」「わたしは誰々の娘である」
「わたしは誰々の友人である」「わたしは誰々の上司である」「わたしは誰々の恋人である」「わたしは何処そこの社員である」「わたしは○○病院の患者である」・・・エトセトラ・・・
わたしとて、いくつかの関係、或いは肩書をもっている。けれども、それが果たして、わたしが人間であるという動かしがたい根拠になるのか?
よく憶えていないのだが、昔、永井豪のマンガで、ひとりの若者が、仲間たちにからかわれて、お前は人間ではなくどこか遠くの星から来た異星人だと言われ続け、それを否定し続けた若者は、最後には精神に異常をきたす・・・のではなく、みなの目の前でその姿がまったく異形の生物に変貌してしまうという作品があった。
それを見た時に、わたしは「彼」ははじめから地球人=人間ではなかったのではないかと思った。
「孤独である」という、「友達がいない」と歎く、しかしそれらはいずれも「人間として」という自覚が、暗黙の裡に前提されてはいないだろうか?その「誤った」前提を取り除いてみれば、人間でない者が、人間社会で孤独であることも、人間の友達を持てないことも特に不思議なことではなくなるのではないか。
仮にわたしが「ニンゲン」であるとして、わたしはしかし、どのように世界と接点を持つことができるのか?わたしはどのようにして、この窓の外に広がる「世界」に自分を位置づけたらいいのか?それが解らないうちは、わたしはこの世界に「人間」として存在しているとは言えない。
わたしは日本語を話し、このように日本語で書いている。日本のお金を使って買い物をし、店の日本人と言葉を交わす。たったそれだけのことで、わたしが人間だと特定できるのか?
それ以外のほとんどの部分で、所謂人間と呼ばれている存在と交流することができず、「世界」とも融和できずにいるわたしが、何故人間なのか?
わたしはあなたに問う、
「あなたは人間ですか?もしハイと答えるなら、その根拠はなんですか?」
人間と番っているから?
人間の子供だから?
人間の親だから?
人間の友達を持っているから?
けれどもそれは本当に「あなたが」人間である証明に成り得るのでしょうか?
◇
数日後、わたしはまたそ知らぬ顔をして、あたかも人間が書くような文章を書くかもしれない。そしてもらったコメントに対し、人間であるかのような受け答えをするかもしれない。
けれどもわたしも胸の底流には、今にも氾濫しそうな勢いで、「わたしはいったい何だ?」という問いが渦巻いている。
自分が人間であるという実感がない?何を言っている?狂ったのか?
それもよかろう・・・
Ciao Takeoさん
返信削除先日友人とメイルで同じような事を話しました
彼女にあなたは人からいい人ねと言われたくて、自分のために、親切をしてるよね?と 私が指摘したのです。
私は時々酷く意地悪な事を言います 苦笑
そうしたら、
彼女は、「誰かに喜んでもらったら嬉しいじゃあないですか?」と「自分の存在意味を感じることができるのは、他者との関係の中でじゃないですか。」と言って来ました
私はそうではないと思います。と答えました。
誰かに喜んでもらうのは、単なる結果であり、目的ではない。と
それが善行であったとしても、他人の反応を勘定に入れる限り、、そして無意識であっても。他人から感謝されていい気持ちになりたいと言う自分がいる限り、それはただ自分のために行なっている行為だと、、。
他人に「あなたはいますよ」と 指摘されなくても私たちはここにいるのです。
あなたのお心遣いは天下一品だと思うけど、誰かからの働き掛けがないと、自分の存在に気づけない つまり自分の重要性とか有益さを認識できないのですか?
はっきり言って誰が自分を必要としてるかなんて 問題ではなく、必要とされているかいないかなども問題ではなく、
人は、太陽からの光をもらってのみ、発光する存在ではなく、自分自身で発光しているのだと、
だから 人が頼ってこようが 無視しようが、あなたの本質には何ら変わりはない。
と言いました。
先日話した 名前の有益性と言うのと同じで、人間という括りは、私が一人でいる時にはなんの意味も持たないと思います。
私が一人でいる時に名前があまり意味をなさないのと一緒です。
他者が存在し、私の素性を明かさなければいけない時のみ、その括りが必要となる「時」が有ります。「時」と括ったのは、いつもではないからです。
動物が私を見る時、私は単なる彼らと類を異にする、生きている、動いている「生き物」で、それにわざわざ人間と命名する必要は生じないですよね
人間と言うのは、人間がその便宜のためにつけたカテゴリーの名前であって、そのカテゴリーの一種類である「人間」であるのに根拠は必要ないと私は考えています。
生きている、息をしている、動いている。で充分だからです。
そして私は動かされている限り、息をしている限り、生きると言う行為をただ行います。
少し前に 誰かのブログにコメントを残したら、「あなたは人間ですか?」と言う質問をされました
指定された名詞に該当する写真をチェックするのですが、もしかして機械にやらせている人がいるかもしれない、と言う事を危惧してのシステムでしょうか?
いよいよ「ターミネーター」の時代なのだなと思ったものです 笑
何度も言ってるので、Takeoさんには同じことを何度も読んでもらっていますが、
私は私の存在を認識するのに、他者の存在を必要としません。
確かに他者と交わり、他者と意見の交換をしたりする事は楽しいですが、私の存在意義に影響を及ぼすほど 必須ではありません。
私は 外部との関係を失っても自分自身は見失いません。
息をして、生きているのは、他ならぬ私であり、その自分の存在が自分以外の外部の存在次第であるなどという事は、私においてはとんでもない事です。
自分でまだ何もできない赤ちゃんは別として。
私は私であり、私にとって 誰の娘とか、誰の妻だとか、そういう括りも又何の意味もなしません。
私は私の両親を愛していますが、そこに愛があるだけで充分で、あえて私と彼らの関係をわざわざ文字にする必要はないからです。
私は自分が何であるとか、どこにいるとかそう言う事を掘り下げて考えません。
なぜなら、自分は誰の存在にも関わりなく存在している、私自身であり、そしてどこにいようが、私が存在している事に変わりはないからです。
が、それと同時に私はいつでも自分がよそ者である事を感じています。
強いて言うなら、私は今いる場所よりも、帰るべき場所の方が興味があるかもしれません。
何故なら、私は地球が大好きですが、自分がこの星に属していると思っていないからです。
前にも言ったと思いますが、私は友人にjunkoさんはエアープランツだと言われた事があります
僕は生きていくのに大地が必要だけど、junkoさんはそうじゃないよね。と
とても言えてると笑いました。
何より大事な事は、自分が生きている、と言う事で、どこで?は、私にとっては二次的問題です。
これまた前にも言いましたが、
私が孤独を感じていた時は、まだ自分自身を見つけていなかった時です。
何年か前に、やっと自分と出会えて一つになってからは、私と孤独という言葉は無縁になりました
メーテルリンクの青い鳥はまさにその事を言っているのであり禅の世界で yangとかyingとか言うのは、あれは男と女ではなく外側にいる自分と内にいる自分の事を表しているのだと解釈しています。
ですから両方見つけてそれが一つになったら、完全な、、とりあえず存在としては、一つの球になるのかな?と
「私はいったい何だ? 」と言う問いには、「私は私である」と答えるでしょう
それ以上の答えなど果たして存在するのでしょうか?
したとして、何の意味があるのか?と
人間と言うのは、ただ人間がつけたカテゴリーの名前ですからそれと私たちの生が一致しなくてもあまり不思議ではありません
自分のことばかり書いてごめんなさい
でも 私の場合は、と断って書く以外、こう言うテーマには答えようがありません
極めて個人的な問題で、個人が存在する数だけ、その考え方が存在すると思うからです。
しかしながら 私はこう言う犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回るような問答が好きなので、つい自分の思考を語りたくなってしまうのです。笑
お邪魔しました 笑
こんばんは、Junkoさん。
削除アンジェイ・ワイダ監督の『コルチャック先生』という映画は、実話に基づいた作品ですが、ヤヌシュ・コルチャックは「わたしが子供を愛するのは自分のためだ」といいます。自己満足のために子供を愛しているのだと。彼は収容所に運ばれてゆく子供たちを見棄てて、自分だけ助かることもできましたが、それをしませんでした。最後まで子供たちと運命を共にしたのでした。
この映画で、コルチャック先生が、子供を愛するのは自分のためだと言い切るのを見て、わたしはある種の感銘を受けました。そして自分の満足のためにいいことをすることのどこがいけないのかといつも感じています。
わたしが誰かにプレゼントをする時感じるのは、贈り物を上げること(あげる人の存在することへ)のよろこびです。無論相手のため、相手に愛情や感謝の気持ちを伝えるためでもありますが、プレゼントをして喜んでくれる顔が見たくてするのです。
そういう点でわたしもJunkoさんの友達も変わりはないと思います。
>誰かからの働き掛けがないと、自分の存在に気づけない つまり自分の重要性とか有益さを認識できないのですか?
と、わたしが問われたら、迷うことなく「はい」と答えるでしょう。わたし自身重要でも有益でもありませんが、すくなくとも、「わたしが存在している」ことの証明は他者によって成されると思います。
>人間という括りは、私が一人でいる時にはなんの意味も持たないと思います。
それはわたしにいわせれば、そもそも存在していないということではないか・・・
無論物理的には独りでいる時間はだれにでもあります。けれども彼らは単に傍らに人間がいないだけで、存在の関係性の網の目のなかに組み込まれているはずです。もしそうでなく、まったく単独に自律して存在しているとしたら・・・しかしわたしはそういう単独の存在の在り方というものをちょっと想像できないのです。
>「人間」であるのに根拠は必要ないと私は考えています。
これは修辞ではなく、(わたしは殊更人間であることを望んではいませんが)他者がわたしを「人間」であると認めない限り、人間として生きることは出来ないでしょう。つまり人間が通う学校に通うことも、人間の会社に勤めることも、人間の食堂に入って食事することもできない。それは各々の生物がそれぞれのテリトリー、棲息する場所を持つことと同じです。
鳥が海に住めないのや、魚が空を飛べないのと同じです。
ここまでいうと悪い冗談とか、或いはからかわれていると不快に思われるかもしれません。確かに言い方は極端だし、おそらく「形而下的には」わたしは人間でしょう。
けれども友達もいず、愛する者も存在せず、これといった「場」に帰属せず、また世界というものに強い違和感を覚える者にとっては、これは冗談ではない切実な問いなのです。わたしとはナニモノか?
松山巌さんは書いています
「しかしはたしてあらかじめ決められた確固とした自己というものはあるのだろうか?」
そして免疫学者多田富雄の『免疫の意味論』を引用します
「正確には、免疫学的「自己」というものが存在しているわけではないことがわかる。反応する「自己」、認識する「自己」、認識される「自己」、寛容になった「自己」──というように、「自己」は免疫系の行動様式によって規定される。そうすると、「自己」というのは、「自己」の行為そのものであって、「自己」という固定したものではないことになる」
「多田富雄は難解なことを言っているのではない、「自己」とは他者との関係の中で、反応し、認識し、学び、行動してこそ生み出されると述べている。」
◇
自己という存在については、「実体論」と「関係論」とがあります。Junkoさんの主張しているのが実体論で、「自己とは諸関係の総和である」という意見が関係論(関係実体論)です。
わたしの孤独を補完するにははやり「他者」の存在が必要です。
わたしもこれが答えで、これが正解というものを持っているわけではもちろんなく、自己とはなにかというそれこそ、犬が尻尾を追いかけるような問いを繰り返しているだけです。正解のある問題を考えても面白くないという気持ちもあります。
この問題について、ヒントとなるような文章を新たに投稿しました。
出来れば全文を読んでもらいたいのですが、わたしが重要と思われる部分の抜粋です。
わたしがこんな風に考えているんだと、この問いを補うことができれば幸いです。
こういう問答は好きですよ。
コメントをどうもありがとう^^
以前高橋健二さんのことでコメントした者ですが、
返信削除私も名前を変えました(笑)
私も物心ついた頃からずっと異分子のように感じてきて、
所謂人間と呼ばれている存在と交流することができず、
交流しなければいけない時は、
人間のフリをしている異星人のように感じてきましたよ。
「あなたはナニモノか?」、まるでスフィンクスが投げかける謎のようですね(笑)
自分は何々と定義する必要があるのでしょうか。
生きている限りは生命力でしょう。
自分の中の生命力は一体何なのか、観察してみたことがありますか?
生命力の正体が分かった時に、自分は何なのか分かるでしょうね。
こんばんは、この名前はベアトリ姐ちゃんでしょうか?それともアトリ?
削除あなたはナニモノカ?これほど根源的な問いかけはないでしょう。しかしあまりに根源的なゆえにこの問いに躓き立往生してしまう人も稀でしょう。
自分が何であるのかが解らなければ生きて行けないと思います。
逆に言えば、なぜわたしはこうもこの世界と融和できないのか?という問いでもあります。「~だから」という手がかりでもあれば随分違うように思うのですが。
生命はそれこそ、オケラだってミミズだって、アメンボだってみんなみんな生きているんだというのですから、生きとし生けるものすべてが備えているものでしょう。しかしその、ショーペンハウエルの言う「生きんとする盲目的な意志」がどのような姿・形で発現するのか?その方向性乃至水路は、予めあるものなのか?或いは個々がそれぞれに作り上げるものなのか?その辺が不明です。
「バラの花はバラとして咲こうとする」とショーペンハウエルは言います。
けれども、しかし人間はバラでもなければサクラでもない。
ふと誰かのことばを思い出しました。
「漆黒の闇の中でも、バラは自分がバラであることがわかるのだろうか?」
コメントをどうもありがとうございました。よい連休後半をお過ごしください^^
アトリ姐ちゃんです。
削除ボッカチオのベアトリ姐ちゃんのようなタイプではないので(笑)
鳥は好きですからね、アトリとしました。
男女の考え方の違いを改めて認識しましたよ。
男性はどうしても理屈っぽくなって思考で答えを見つけようとしますが、
上でコメントされてる方と表現は違っても言わんとすることは同じで、
やはり女性というのは生命の根っこのところで理解するものなのかと(笑)
私もね、随分長い間切実に自分は何なのかと探求してきてまして、
結果的に今の時点でたどり着いたのが、究極的には生命力ではないかと。
鉱物界や植物界や動物やヒトや、ヒトの制限された通常の認識力では
いまだ知覚されていないそれ以上やそれ以下の存在達を存在たらしめている生命力。
そしてあらゆる技術を発展させてきた人間ができないこと、
それは生命力を作り出すこと。せいぜい遺伝子をいじったり、クローンですわ。
生命力を創造している力こそ、神と言ってもいいかもしれません。
人間が神との繋がりを意識できるのは、それこそ自分の中に流れている
生命力を認識することによってですよ。それこそが純粋に自分の中で観察できるもの。
自分は何かと思考するのは記憶に頼るものでしょう。
それは自分だけの記憶に限らず、主に他の人の考えや、読んだり聞いたりするものの集合ですよね。
生命力って言われても、すごく漠然としてると思われるかもしれませんが、
生命力の躍動をはっきりと感じられる程に内なる観察力を研ぎ澄ませることができるのですよ。
そして生命力の繊細な流れは存在の根源へと繋がっています。
生命力を知覚できるまでに観察力を研ぎ澄ませるのには
思考を沈黙させなければいけません。
思考が沈黙した時に初めて浮かび上がってくる知というものがあるのです。
でもこういうことを書くと、余計に混乱させてしまいますね。
この辺で止めておきましょう。
色んな方向から自分はナニモノカという謎にアプローチできるってことだけでも。
こんばんは、アトリですか。アトリというのは鳥の名前ですか?(無知です汗)
削除わたしはここも含めて、主にブログという場を通じて、自分のなかにある様々な問いを発していますが、それは自分はこういうところで躓いているんだ、こういう壁に行く手を遮られているのだと改めて確認する作業で、問いかければ自分の中で、或いは誰かが「解決策」を見出してくれるとは考えてはいないと思います。
どんなに頭脳明晰な哲学者であっても、それ故なんの悩みも憂いもなく日々ハッピーに暮らしているかというと、そうでもなさそうです。それとも彼らは、言い方は悪いが、メシの種としてわざわざ「問題」を作り出しているのでしょうか?(笑)
わたしはこういうやりとり自体が好きです。色んな人の異なる意見を聞くことが。
そこから新たな思考の芽が生まれてくることもあります。
アトリさんの意見はちょっと難しくて、なんとなく東洋思想、禅の世界に通じているのだろうか?などと思いました。
不思議なもので、わたしは「言葉」への懐疑を強く持っているにも関わらず、なかなか言葉を離れた存在そのものに至ることが難しいのです。
あれこれと矛盾した存在です(苦笑)
アトリさんはドイツでしたね。上でコメントを下さっているJunkoさんはローマにいらっしゃいます。ということでGWとは無関係でしたね。
気が向いたらいつでも気軽に書き込んでください。
コメントをありがとうございました^^
Junkoさん、(ベ)アトリ姐ちゃん。
返信削除わたしの返信で、ご気分を害されていないことを望みます。
わたしはこういう「哲学的」な問題で、相手を「論破」しようとか、自分の意見の正当性を言い張るつもりはまるでありません。
ただ基本的にこういう議論が嫌いではないので、つい饒舌になってしまうことがあるかと思います。
そもそも相性の問題ですが、基本的に「意見」は「異見」というスタンスのわたしにとって、こういうやりとり、議論は好ましいものです。
少なくとも、双方が違いを認めつつ、お互いの意見(異見)を面白がっている限りにおいては。
わたしはおふたりの意見を興味深く読ませていただきました。
^^
無作法がありましたらお詫びします。
Takeoさんとお呼びすればいいのでしょうか、
削除それとも新しいHNのPobohさん?
Pobohって何の意味が含まれてるのでしょう?
それから気になってるのは、ロゴに写ってる
この男女のペアは誰ですか?(笑)
相手を論破しようとなさってるなんて全く思ってませんよ。
どんなコメントにも、簡単な数行の内容のない返事で
済ませてしまう人が多い中、一つ一つのコメントに
誠意を込めて返事されてる真摯さはちゃんと受けとめています^^
感心しているくらいです。大いに饒舌になってくださいまし。
その方がこちらもコメントを書き込んだ甲斐があったというもの。
Takeoさん、あるいはPobohさんが自分の意見を書いてるように、
私も相手と異見であろうが、自分の意見を書いてるだけですし。
その場合も自分の意見の正当性を言い張るつもりはないのです。
何でも他人の意見に同調しようとするのは日本人のメンタリティーであって、
欧州では色んな異見を交わし合うのが普通ですからね。
そういう意味では、高橋健二さの記事へのコメントにも書いたような覚えがありますが、
Takeoさん、あるいはPobohさんはヨーロッパ的なところがあるようですね。
ヨーロッパに住んでいたとしたら、日本よりもすんなりと溶け込んでいたかも?
と言っても、私がここの社会に溶け込んでるわけではありませんけども(笑)
ひとつ上にいただいてるコメレスに書かれてることですが、
そうですよ、私の場合、自分がナニモノカという答えを求めて、
オリエンタルな霊性からアプローチしてきました。
哲学も色々読んではみましたが、どれも単なる主観であって
これが真理だ!とは信頼できないですし、満足できないですね(笑)
偉大だと思われている西洋の哲学者の多くは東洋の世界観から
インスピレーションを受けていて、それを自己流に
西洋的に論理的に分析し言葉に構築しているだけです。
こんばんは、アトリさん(でいいですか?)ぼくは、どちらでもいいんですが、Takeoと呼んで下さい。
削除Pobohは、「ぽ坊」です。以前、年上の女性の友人が、たけおをたけぽと呼んで、一時期そのPOだけをSNSのハンドルネームに使っていました。その後ぽ坊(ponoh)に変わったというわけです^^
写真の男女は『バッファロー’66』という映画の主演のふたり、クリスティーナ・リッチと監督・脚本・主演のヴィンセント・ギャロです。ふたりで、フォトブースで記念写真を撮っているところです。彼女がいちいち変な顔をするので、彼が怒るんですよ(笑)「4セントが無駄になった!」とか。
バッファローはアメリカの地名、’66は「彼」の誕生した年です。
わたしの好きな映画のひとつです。
わたしはコメントをあまりもらうようなことを書いていないのですが、いろいろとブログを読んでいると、わたしのようにここでディスカッションしようという感じの人は少ないようですね。単に儀礼的な挨拶にちょっと付け加えた程度のコメントで、あまり掘り下げようとはしていないようです。
わたしも、ヨーロッパやアメリカにいればこれほど生き辛さは感じなかっただろうと思います。現にフェイスブックや、それ以前のSNSでは友だち全て外国人でした。外国語はできませんが、アートで繋がっていました。
言葉が通じることと、気持ちが通じることとは同じではありませんね。
わたしも日本人であれ外国人であれ、「この人の言うことこそ真理」という人はいないし、そういうのはわたしのスタイルではないようです。
あちらこちらと食い散らかしています(苦笑)
追伸
わたしはアトリさんと呼んでいますが「アトリ姐ちゃん」は個人的に好きです。
Ciao Takeoさん
返信削除ふふふ、そんな簡単に気分など害しませんよ
私こそ言いたい放題言ってる訳ですから、人様の語った事に傷つく権利はありません
私に直接言ってきてくれる場合のみにおいてですが、
ましてや Takeoさんでしょー相手が、、あり得ませんからー 笑
ご心配なく
上のアトリさんのコメントを読んでいて、多分女性の方が、生に対して図々しいのではないかと感じました
付け加えれば、生だけに限らず、ほぼ全ての事において図々しい
女という事で、社会から強いられたり、期待されるものも少ない
だから、腹が括りやすいと言えるかもしれません
感覚的には、丼に白いご飯を入れて、そこに生卵に納豆におネギに醤油を入れて、下手したら、海苔とか、明太子なんかも 入れちゃって ぐちゃぐちゃかき混ぜて 平気で食べれる感覚?
冷蔵庫の余り物 悪くなる前にとみんな ごっちゃに入れて料理を作り
美味しいことよりも、食品を無駄にしなかった事の方に誇りを感じたりして、、苦笑
多分 女性の方が野生が強いのだとも思います。
で、それは何故かと考えたら、もしかして男性の お⚫︎⚫︎⚫︎んのせいじゃあないかと、 笑
ほら、男性のは外に出てるでしょ?
ほら、私らのは内蔵でしょ? それに比べて 男性の「もの」は外にぶら下がってる
外付けのものの方が外部からの攻撃や衝撃に弱い、
だから
どうしても男性は 臆病になったり、繊細になったりするのじゃあないかと、、。
つまり、、言うなればお⚫︎⚫︎⚫︎んシンドローム ( クスクス)
私も、上にも書きましたが、犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回るような、結論とかたった一つも真実とかが存在しない。そういう 普通の人の感覚では全く役に立たなそうな、んな議論が好きです
例えば、月の見る夢って、どんな夢かなあ、、とかね 笑
こんばんは、Junkoさん。
削除いや、こういう議論になると、知らず知らずのうちに熱くなってしまうことがあるかもしれないと思って(苦笑)
同じように意見交換していても、なにか不快になることってありますよね。
どちらも「異見」ではあるんだけど、聞いていて抵抗のないものと、そうでないもの。なにが違うのか・・・
女性が図々しい、というよりも、生命力が強いのかもしれませんね。
美味しいことよりも無駄にしないこと、これは当たり前の心がけで、「美徳」でもあると思うんですが、果たして最近の女性も同じでしょうか?(苦笑)
>お⚫︎⚫︎⚫︎んシンドローム ? アハハ!
これは独自の見解で非常におもしろい視点です(笑)
前に竹中労の「三国志」関係の本で読んだんですが、武道(中国拳法だったかな?沖縄かな?)の達人は、敵の攻撃から守るために、瞬時に「あそこ」を体内に納める技を持っているそうですよ。
いずれにしても、こういう思いがけない意見が飛び出すのっておもしろいですね。
正解がないのだから、勝ち負けもない。言いたいことをいいあって楽しめればいいと思っています。とはいえ、書いている内容は至極真面目なつもりなんですが(苦笑)
「夢見る月」は、月にうっすらと雲がかかっていて、まるで眠っているようにも見えるし、水面に月の影が映っているのも、なにか夢・幻のようだと思ってタイトルを替えました。
いつも面白いコメントをありがとう^^