2020年11月14日

孤独と生

 
このところ、「生きる意味」というものがますますわからなくなっている。

「孤独の中で生きるということ」・・・

「生」が自己一身の中で循環し完結しているということがわたしには理解できない。

孤独の中に生き、自分のために飯を炊き、自分のために飯を食い、自分のために本を読み、自分のために展覧会に行き、映画を観に行く。それに一体何の意味があるのかがわからない。

「人生はひまつぶし」というやつだろうか?

"Mostly I just kill time" he said. "And it dies hard" 
ーRaymond Chandler  'Long Goodbye' 1953

「時間をつぶす」、英語では”Killing Time”という。”Die Hard”は「容易には死なない」

人生は時間をつぶすことであり、それがなかなか容易ではないのなら、時間ではなく、自分を殺す方が手っ取り早いのではないかと考えてしまう。

わたしには孤独の中で絵を観ることや読書することに「時間をつぶす」以外の(以上の)意味を見出すことができない。

読んだ本について、観た絵や映画について語り合える存在のいない人生は、少なくともわたしにとっては無に等しい。


或る人からのメールの返事がなかなか書けない。

仮に人間というものが本来的に「孤絶した存在」であるのなら、(しかしこれは”No man is an island”=「誰も島ではない」というジョン・ダンの説に真っ向から対立してはいないか?)そのような過酷な生を人は生きることが可能なのだろうか?

わたしの、ひとつ前からのブログに頻繁にコメントを寄せてくれていた女性が好きだと言っていた言葉・・・「人は誰しも世界の孤児(みなしご)だから、時々手を繋ぐ必要があるの」
しかし、世界の孤児同士が一体どのように「手を繋ぐこと」が可能なのか。誰とも手を繋ぐことができないからこそ「この世界の孤児」であり「世界にたったひとり遺棄された者」ではないのか?


人が本来「孤絶した存在」であり「世界のみなしご」であるのなら、わたしは「生まれてきたことが敗北なのだ」というシオランの言葉に深く頷かざるを得ない。
同時に、自分のために読み、自分のために書き、自分のために食べ、自分のために観、聴き、学ぶこと・・・自己という一個の存在の中で完結する生の在り方というものが理解できない。

或いはわたしには自己を分割するという能力が欠如しているのかもしれない。
「本を読む自分」「それを愉しむ自分」「音楽を聴かせる自分」「それを聴く自分」「食べ物をつくる自分」「食べる自分」

人が完全なる孤独な存在であるなら、最早自分自身を「与える側」と「受け取る側」に分割する以外に「孤」から「独」から抜け出す方法はないのではないか。

人は誰しも孤独だからこそ、本があり、音楽があり、芸術・芸能があり、映画があるのだという意見もあるかもしれない。けれども、人が本当に孤独な存在であるなら、一体、本が、音楽が、芸術が何の役に立つだろう。その「生という地獄」の中に在って・・・

わたしはよく「喪失後の世界」ということについて語って来た。
愛弟子、顔淵を喪った時、孔子は「天、予を喪(ほろ)ぼせり!」と慟哭した。
けれども孔子は顔淵亡き後も生き残った。

辺見庸は親友=心の友ともいえる者をふたりも獄中で亡くしながら(ひとりは執行前に病死、ひとりは死刑)も尚生き延びている。

何故か?

つまり、孔子にも、辺見にも、「顔淵」に代わる代替品がいたからだ。

言い換えれば、孔子にとっての顔淵にしても、辺見にとっての大道寺将司にしても、決して「かけがえのない存在」「それなしでは生きて行くことができない」ような存在ではなかったということだ。

我々・・・否、わたしは、なにものかの存在(他)(との関係性)によって「生かされている」そして、あたりまえのことながら、その存在とともに滅びる。何故なら「孤独な生」などというものに何の意味も見出すことができないから・・・いや、「意味を見出す」などと言う以前に、孤独では生きてゆけないから。


[関連投稿] 「誰がために鐘は鳴る

cf  ' I am a rock' Simon and Garfunkel / ' Every time we say good bye (I die a little)...' Ella Fitzgerald  


ー追記ー

人が、「喪失後の世界」にも尚生き永らえることのできる存在であるとしたら、人間とはなんと厚かましくも図太い存在なのか・・・
















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