弟と話していると、自分が本当に救いようのない愚か者のように思えてくる。弟もまたわたしを愚図のうすのろだと思っているのだろう。そしてその見方は正しいのだ。
人それぞれの多様性、違い、と言うけれど、やはり「正しい生き方」「誤った生き方」というものが客観的にあるように思えてならない。
そして弟は正しく、わたしは、嘗ていろいろな人に指摘されてきたように、「誤った存在」なのだ。
「わたしはわたし」などというのは所詮は言い逃れに過ぎない。「正しさ」「正しい生き方」を目指さなければならない。けれどもそれができない、それをしたくない人間がいる。
それは最早まっとうな「人間」ではない。「人間をやめた」存在だ。
これまで様々な講演会に行き、その道の専門家に対して、遠慮なく異論を申し立ててきた。
「そうではないだろう」と思ったからだ。
多くの講師はわたしの言い分にきちんと耳を傾けてくれた。ある評論家は、わたしの発言をそのまま自著に引用した。
けれども、弟には何一つ言い返すことができない。100%わたしが間違っているのだとしか思えないからだ。
弟の前にでると、正に蛇に睨まれたカエルのようになってしまう。
そして弟の傍にいると、引きこもりである自分が完全に無能なアホウのように思われ、
その想いが広がり、果ては、世の反・引きこもりの意見は決して間違ってはいないのではないか、とさえ思えてくる。
しかし、嗤われ、蔑まれ、鞭打たれるのはわたしだけでいい。
「正しさ」それはその完全なる「正当性」故に、「正しく」「強く」生きることのできない人間を傷つける。
これは「多様性への懐疑、或いは人間廃業宣言」への
返信削除短いコメントです. ブログのコメント欄が閉じられて
いるのでメールで送ります.
苦しいですね. 兄弟に感じる劣等感や自分が無能であ
るという思いは本当に苦しいですよね.
私も自分は駄目だ, 自分は無能だという思いが強いた
めにその苦しさの一端はわかるつもりです.
私には「正しい生き方」というものがあるのかどうか,
わかりません. ぼんやりとですが, そのようなものは
無いと思います.
けれども Takeo さんの, 自分は「正しい生き方」が
できない, したくないという気持ちを支持します.
私には, Takeo さんの豊かな教養や美に対する繊細さ
は, そういった「正しい生き方」への懐疑や反抗と無
関係ではないように思われます.
美や真理への眼差しを持つためには, 孤独の中で自ら
の内的な世界に降りていく行為がどうしても必要なの
ではないでしょうか. それは普遍を求める試みである
が故に人間の中にいては無理な部分があるのです.
今朝, シモーヌ・ヴェイユを読んでいてそんな風なこ
とが心に浮かびました.
孤独になるための自分の空間とある程度の時間を持っ
てほしいと思います. 新しい部屋が, Takeo さんにと
ってのそのような場所にはなりませんか.
底彦
こんばんは、底彦さん。
削除引っ越しの話が決まってから、ずっと底彦さんの生き方について考えていました(現在も)。
究極の個(孤)が、夜空に花火が開くように「普遍性」に通じる。地中深く掘り進んでゆけば、必ずいつか、誰もの心に流れている通奏低音のような「普遍」に突き当たる・・・という考えは、わたしに関していえば、甚だ怪しいと思うようになりました。
それはカウンセリングの話が出てからですが、先週、引っ越しの前日に、多摩総合医療センターの精神神経科の医師と1時間ほど話し、カウンセリングを試してみることになりました。
1回30分。
映画『17歳のカルテ』のように、1回2時間、週3回のセッションを2年間。その間当人は自分の病気に関する本(境界性人格障害)についての本を読み読み読み。書く、書く、書く・・・そのようなことをやって初めてわたしという「似た者がいない」存在の片鱗が垣間見えるかもしれない。しかし1回30分で3月まで(担当医が異動になるので)で何がわかるのでしょう・・・
◇
余談が長くなりましたが、わたしに関していえば、何処まで深く掘り進んでも、決して、普遍性には到達しない気がします。何というか、あまりにも「人間一般」と違いすぎる気がするのです。
◇
底彦さんは、世間或いは社会、または人間から「逃れるように」今の孤独の境地に至ったのでしょうか?
つまりわたしと底彦さんの現時点での大いなる相違点は、フェルナンド・ペソアが「人を遠ざけるのは簡単だ。近づかなければいい」と言い、それに対してわたしが、「人を遠ざけるのは簡単だ。近づけばいい・・・」と言った。そんな違いなのかと思うのです。
わたしのモットーは「人生はそれを分かち合うものがなければ意味がない」というものです。
しかしわたしはどうしても、磁石のNとN、SとSのように、決して、他者に近づくことができません。
底彦さん、わたしは決して求道者ではありません。「美」や「真理」よりも、一緒に酒やコーヒーを飲める仲間が欲しいのです。
もし底彦さんがわたしの中に、美への鋭敏な感受性や、文章の味わいのようなものを認めてくださるとしたら、それは、仲間を得ることによって、益々研ぎ澄まされたものになるでしょう。「多々益々辯ず」とは韓信の言葉だったと思います。
そしてもしわたしがなんらかの才を持っていたとしたら、それは今まさに孤独によって朽ち果てようとしています。
過去にも書いたと思いますが、わたしは底彦さんが、これだけの苦しみの中で、尚、精神的なものを希求してやまないことに驚嘆しています。同時にその驚嘆は、わたし自身との隔たりへの驚きでもあるのです。
自分自身を省みて、底彦さんのように強い「精神的なもの」への憧憬があるとは思えないのです。
精神性という点に於いては、わたしなど底彦さんに遠く及びません。
また「孤独」と言うことについても、わたしの場合「誰も構ってくれないから」「否も応もなく」孤独に追い込まれているので、底彦さんのように、求めて得た境地・心境ではないのです。
わたしは底彦さんのわたしという人間への誤解、乃至過大評価が何に由来しているのかがわかりません。
私は苦しいのです。自分の特異性が。決して「普遍」に成り得ない畸形性が・・・
追伸
削除鬱に伴う無気力、倦怠感などに苦しめられながら、鬱がちょっと居眠りをしている隙を見ては、絵を描き、読書をし、数学やプログラミングの勉強をしている底彦さんのような人にすれば、
もっともっと自由に動ければ、もっともっと吸収したいこと、そして表現したいことはいくらでもある筈。しかし自由に動ける時間はあまりに少ない。
それにくらべてこいつは時間をドブに捨てている!というある種の憤りすら感じられるかもしれません。
けれども、底彦さんの苦しみとはまた別の形で、わたしも常に苦しんでいます。
ここに来る前は、もう少し「希望」めいたものもありました。今でも・・・
マルメッコの布をパソコンやレコード・プレーヤーのカバーに使ってみたい。
アジェの、ブラッサイの、ドアノーのパリのポスターを壁に飾りたい。
今年は何年か振りで・・・ほんとうに何年かぶりで銀座伊東屋か丸の内丸善のカレンダーフェアに行って、輸入版のアート・カレンダーを手に入れたい・・・
けれども、現実には外の世界はわたしにとってあまりにもよそよそしい。それは「群衆の中の孤独」といった世紀末的なある種の甘美さを伴った寂寥とは違い、もっと刺々しく、敵意に満ちているように感じられるのです。
静かであれば、いつでも立川までバスで行けるものを。騒音の中の20分は拷問です。
また立川から東京駅まで行くにしても、たとえ特快に乗ったとしても、あのうるささはバスと変わりません。
数年前に、新宿紀伊国屋で行われた辺見庸の講演会の切符を母の分と2枚手に入れた時には、立川から新宿まで、「特急」を使うつもりでいました。
(結局講演会にはいきませんでしたが)
「公衆電話のない世界」で書いたように、世界は、わたしにとって急速に縮小しているようです。
そしてわたしは、皆のように、自由に外に出ることができれば、自由に電車やバスに乗ることができれば・・・とは思わないのです。
どんなに不自由であっても、この世界の醜さに馴染んでいいのか?という疑問が、常にわたしの美意識に抵触するからです。
また、普遍性ということでいうのなら、「公衆電話のない世界に生きるということ…」で書いたわたしの状態・心理を「わかる」人がひとりでもいるのだろうか?という想いがあります。そしてそれはわたしのその他の文章についても同じことです。「独特の認識の化け物」の見た世界が普遍性を持ちうるでしょうか・・・