2020年11月2日

わたしの狂気 弟の正気

 
数日前の投稿「言葉と社会」で紹介したブログ生き地獄の日々」。このブログの筆者は、ご自身を「人間の屑 廃人」と称されています。

わたしのブログのタイトルは、昨日、11月1日を以て『ぼく自身或いは困難な存在』から『人間 廃業 宣言』と改めました。それは「人間であるということ」に疲れ果てたこと、最早「人間」「ヒト」という生き物ではありたくないという気持ちの表れでもあります・・・
「生き地獄の日々」の筆者を、わたしは親しみを込めて、「廃人さん」と呼んでいます。

ここで過去の自分の言葉を三度(みたび)、繰り返します。
ああ、自分で自分を貶める ── 正確には「本来の自分」を直視することだが ──「言葉による自傷」は、時になんと快いのだろう。自分が最早これ以上落ちる(堕ちる)ことのない「どん底」の泥濘の如き存在であるという安堵感、最早人間ですらないという心の解放感。

このような気持ちを別の言葉で言い換えたものが「人間 廃業 宣言」なのです。

ただし、「廃人さん」はわたしとはまったく逆に、このどん底からなんとか這い上がり、社会復帰を目指しています。「自称」ではなく正真正銘の廃人であるわたしには到底真似のできないことです。

またわたしの知っている「底辺」を名乗る方もやはり、廃人さんと同じ精神の病に苦しみながらも、「日の当たる場所」へ歩を進めていこうと日々努めていらっしゃいます。

「人間廃業」を宣言したわたしと、「廃人さん」「底辺さん」とはここでお別れのようです。


引っ越しの業者をなかなか決めることができないわたしを心配してか、或いは業を煮やしてか、弟が、全部自分がやるからと言ってくれました。ところが弟は、わたしが決められない理由を改めて聞いて、真から呆れ果てているようでした。
弟の考えを一言でいうなら、「いったい人に何を求めてるんだ?」ということではないかと思います。
「電話の切り方が無礼」だとか「消費税分の金額を後から言うとか」そんな些細な事を気にしてたんじゃ永遠に業者なんて決まらないよ。というのが弟の言い分のようでした。
彼の基本的なスタンスは、わたしや母と違い、「世の中ってそんなもんだもん。しょうがないよ」。つまり「そんなもの」である世の中の在り方に不平不満を言っていたのでは、そもそも生きて行けないという、まったく反論の余地のない正論でした。

以前弟は、わたしの主治医に、わたしが本ばかり読んでいるが大丈夫なのかと尋ねたことがあります。これもまた一理もニ理もあるのです。

嘗て「ぼく自身・・」に書いたことがあります。


「何を読み、何を見、何を認識し何を考え何を感じたかがさらなる世界像を作る」ことは確かだ。しかし、そのことと、「世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る」ということを混同することはできない。
わたしが自己の感受性や美意識によって取捨選択し構築した世界、それはあくまでも「わたしという一個人」の「内的世界」「内宇宙」でしかない。そして自己の内側に、自己の美意識に基づいた世界を持つことは、「世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る」どころか、逆に現にわたしの外側に、「わたしとは全く無関係に厳として存在している客観的世界」との乖離を深めることすら意味している。

「何かを読み、何かを見、何かを認識し何かを考え何かを感じたかがさらなる世界像を作る」そのことによって、わたしはますます現実の世界から遠ざかってゆく。

繰り返す。

自分の美意識によって形作られた内面世界は、客観的世界と相容れない。
もし「今・そこにある世界」になんの不満も欠乏も感じていなければ、「内的世界の創造」の必要などないからだ。

 


弟が重視するのは、料金の安さです。自ら運送業界で働いていた彼には、料金の高さと業者の質とはまったく無関係であるということ、そしてそもそも、わたしが求めているレベルの「親切・丁寧」等を求めるのは、現実を知らなすぎるということ。所詮5万円のところも、2万円のところも大差ないのだから、それなら無駄な金を使うことは馬鹿々々しいと彼は言います。これもおそらくはその通りなのでしょう。

わたしが2度目に決めた業者の値段が、昨日キャンセルした業者よりも更に1万数千円も高いので、(弟が)キャンセルしようとしたら、先方は、「本人でないとキャンセルはできない」と言っている、と。わたしが「人が怖いので、電話には出られない」というと、再び呆れたように、「断ることができない契約だったらはじめからしないことだね」と。

弟は、徹底した現実主義者のように見えます。ある種の人たちのように、「現実を肯定」しているのではなく、「どのような現実であろうとも、それが現実である以上はそれが現実なのだ」という思想です。

わたしとしては、弟がいうように、「あまりにも現実世界を知らなすぎる」と言うことに、まったく反論の余地がないので、自分がボロ布のように感じられます。

そしてわたしがもっとも苦手とするのは、威圧的、暴力的な人と同じく、世の中で生きてゆくうえでの「正解」を知っている人たちなのです。
極めて俗な言葉で言うなら、わたしはどのような意味に於いても、「利口な人たち」が苦手なのです。「利口な人たち」は迷いません。自分を疑いません。何故なら彼らは既に、「正しい位置」に立っているのですから。

一方で、わたしのように無知な者は、今回のように、当然周囲の人間に迷惑を掛けます。

わたしは・・・わたしこそが、救いようのない「人間の屑 廃人」なのです。










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