わたしとおなじように孤独で、たいして美味くもないコンビニ弁当をひとりで食べている独居老人に、「あなたは何のために生きているのですか?」と訊いてみたいという興味はわたしにはまったくない。ひとはこれこれという「生きる意味」を持たなければ生きられないのか?
そうではない。彼は、彼女は存在している。いま、現に生きている。まさにそれ自体が生きる意味ではないのか。
生きる意味を問いかけることは、ある意味、問いかける対象の生の在り方に対する懐疑である。わたしはホームレスにも、生活保護で細々と生きている老人たちにも、その生き(てい)る意味を問う資格を持たない。彼らはその存在自体で既に貴いからだ。
けれどもわたしは自らに問いかけずにはいられない。
お前は何にために生きるのか?と。
何故か?
わたしは「生自体」を、その意味と、目的とすることができないからだ。
わたしには生きるために拠って立つ瀬、足場が必要なのだが、自分にはそれが見えないからだ。
自分自身の内側に生の根拠を持つ者もいれば、わたしのように、わたしという存在を支える、「外部」が不可欠な者もいるのだ。
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