2020年11月17日

断想(わたしは誰とも似ていない)


 ● 明日は多摩総合医療センターで、初めての心理テストをする。カウンセリングの初回である。カウンセリングは1回30分。わたしとしては1回2時間・・・とは言わずとも、せめて80分、最低でも1時間のセッションを週に2回。それを2年間くらいは続けないと本当の「カウンセリング」にはならない気がする。


● ロールシャッハというものは、随分子供の頃に学校でやった気がする。
あれは必ず「何か」に見えなければいけないのだろうか?わたしはどのような図形(?)を示されても「インクの染み」にしか見えない気がする。


●「わたしは誰にも似ていない。」その言葉に多摩総の医師は興味を示したように感じられる。
「ワタシハダレニモニテイナイ」極言すれば、精神の障害の有無にかかわらず、「人間といういきもの」と似ていない、ということ。けれども、仮に人間誰もが「世界の孤児(みなしご)」であり、「ただひとり世界に遺棄された者」であり、「誰もが本来的に孤絶した存在」であるならば、そもそも「自分に似た者がいる」ということは矛盾してはいないか。


● わたしにはこのおぞましくもグロテスクな社会への復帰を目指す障害者の気持ちが全く理解できない。


● わたしには、「先のこと」を考える障害者の気持ちがわからない。
この時期方々のブログに「来年は・・・」などと書かれているのを見て不思議の念に囚われる。何故「明日」のことを計算に入れられるのだろう?基本的に人間の存在は「明日ありと 思ふこころのあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」ではないのか?
「来年のことを言うと鬼が笑う」というのは全く眞實である。
「明日も生きている」という前提はなにを根拠にしているのか?


●「いま苦しめられている様々な症状が完全に消滅し、なおかつ今後衣・食・住に関する一切の心配の必要がなく心身ともに完全に健康な状態で百歳まで生きる」という条件と、「向こう三日のうちに、一切の苦しみもなくこの世から消滅することができる」という条件の選択を迫られた時に、「引きこもり」を含めた多くの「精神障害者」たちが前者を選択するであろうことをわたしは頗る怪訝に思う。
治癒とは畢竟、この醜悪極まりない世界と懇ろになることに他ならない・・・







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