2018年4月5日

誰がために鐘は鳴る

「すべての物語は、その人たちだけの物語ではない、と思います。 」
そう彼女はわたしに言った。そして、ジョン・ダンの言葉を添えた。
No man is an island,
entire of itself;
every man is a piece of the continent,
a part of the main.


ー John Donne’s "Meditation 17"
「わたしたちは決して「孤島」 ではない。
それのみで「全体」ではない。
われわれはみな大きな大陸の一部である。
全体(本体)の一部である。」
それでも、とわたしは思う。わたしたちは各々に個別の物語を生きるのだと。
それは決してケーキやパイのように、仲間と切り分けることの出来ない固有の痛みであり、固有の悲しみ、煩悶であると。
人と代わることの出来ない、交換不能な痛みや悲しみや苦しみが含まれる生を持つからこそ、それぞれに固有の「死」が生れるのだと。

わたしは彼女の目を見つめながらそう言葉を続ける。

・・・でもダンはこう続けているわ
Any man’s death diminishes me,
because I am involved in mankind;
and therefore never send to know for whom the bell tolls;
it tolls for thee.
「誰の死であっても、それはわたしの一部の消滅である。
何故ならわたし自身が「人類」の一部なのだから。
それゆえあなたは「誰のための鐘がなっているのか?」と尋ねる必要はない。
弔いの鐘はあなたのための鐘の音でもあるのだから」 

わたしは続けて反問する。
わたしの弔いに鐘の音は不要であるにしても、仮にそれが鳴らされるのなら、それは誰のための鐘でもなく、わたし固有の鐘でありたい。

わたしの生涯の苦悩と悲しみを「人類(全体)」と分かち合うこと、それをその中に溶かし込むことををわたしは望まない。

誰もわたしの悲しみを悲しむことはできなかった。それは屹立した悲しみであった。
何者もわたしの痛みを感じることはできなかった。それは孤独な痛みであった。

わたしはかつて"Piece" や "Part" であることはなかった。
そして全体の一部であったことはなかったのだから。

その鐘は、わたしのための鐘ではない。

(人間の尊厳は、なにか自分より大きなもの、自分とは別のものに還元されることのない、「その人の存在」という厳粛な一回性の裡にこそあるのだと思う。
あなたの悲しみを「人間全体の悲嘆」の中に埋没させてはいけない)

わたしはそのように返事をし、彼女の肩に手を乗せて微笑んだ。



   









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