2018年4月28日

わたしのなまえ

詩人の石原吉郎が、「確認されない死の中で」という一文の中で、1967年のスウェーデン映画『みじかくも美しく燃え』のラストシーンについて語っていた。

心中を決めた男女が、死に場所を求めて歩きまわる。途中、偶然出会った男性に、男が相手の名を尋ね、その後自分の名前を名乗って立ち去る。

石原はこのように記す、

私がこの話を聞いた時に考えたのは、死に際して、最後にいかんともしがたく人間に残されるのは、彼がその死の瞬間まで、存在したということを確認させたいという衝動ではないかということであった。そしてその確認の手段として、最後に彼に残されたものは、彼の名前だけという事実は、背すじが寒くなるような承認である。にもかかわらず、それが彼に残されたただひとつの証しであると知った時、人は祈るような思いで、おのれの名におのれの存在のすべてを賭けるだろう。
いわば一個の符号に過ぎない一人の名前が、ひとりの人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからに他ならない。ここでは疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。
私がこう考えるのは、敗戦後シベリアの強制収容所で、ほぼこれと同じ実感をもったからである。

けれども、「彼」がまさしく他ならぬ「彼」であるということは、そばに愛する人がいるという時点で、既に明らかにされているのではないだろうか?
「彼」は天涯孤独の身で、ひとりぼっちで死に場所を探しているのではない。 今彼が抱いているその愛に、すなわちその女性との関係に殉じようとしている者が、何者でもない訳はない。
存在の最後の瞬間まで、「何者か」であることができれば、死後のことは知ったことではないとわたしは考える。
先日引用した誰かの言葉、「肝心なのは、死後の生が存在するかではなく、死ぬ前に生が存在したかだ」に従えば、この映画のふたりは、命の灯が燃え尽きる瞬間まで「生」と共にあったのだ。

それに対して思い出すのは、セルジュ・ブールギニョン監督の『シベールの日曜日』という、やはり60年代の美しいモノクロ映画だ。

戦争で負傷し、記憶を失った若者ピエールと、孤独な少女シベールとの束の間の友情。
森の中で日曜毎にあって、散歩をし、話をする二人。けれども、記憶を失った若い男性であるピエールは、周囲の誤解と偏見によって、シベールと戯れているところを射殺されてしまう。ラストシーンで、この孤独な少女に名前を聞く警官に対し、ピエールの亡骸のかたわらで、シベールはひとこと、「わたしに名前なんかない」

わたしは石原吉郎のように、誰にでも名前がある、とは思ってはいない。
シベールがシベールであったのは、ただピエールとの交流においてのみであった。
そして彼の存在が無くなってしまった時、シベールという彼女の名前もまた、ピエールと共に消えたのだ。

「私は無名戦士という名称に、いきどおりに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである」
と石原は書く。

わたし自身を省みた時、わたしはまさしく「無名の者」であり、TAKEO という名前も、たんに番号ではないというに過ぎない。
「名前」というのはわたし固有のものではなく、誰かがわたしを呼ぶときに必要なものなのだ。つまり名前を必要としているのはわたしではなく、わたしを呼ぶ他者である。
とはいえそこに相互の敬愛が欠けている場合には、とりあえず、その人物を特定しうるものでさえあれば事足りるのだ。

「確認されない生の中で」わたしはそんな風に感じている。











4 件のコメント:

  1. Ciao Paboh Takeoさん

    正直言って 今まで名前と言う事、それが自分にとって何を意味するかさえも深く考察したことがなかったのですが、この機会に改めて考えてみたら、私は名前の重要性、必要性をほとんど感じていない事がわかりました
    名前は、互いに呼び合ったり、誰かに呼ばれるため。ではなく、誰か、第三者がその人の事を他の空間において、他の誰かに示唆する時に、( 納税義務だとか、戸籍だとかと言う社会が個人の存在を把握する必要性を抜きにして) 必要になるのではないかと思います。

    私が、例えば誰かと一対一で向き合う時、私は、その人をその人の名前ではなく、「あなた」と呼びたいと思います。なんだか その方が名前で呼ぶよりも、相手の方のもっと深いところに向かって呼びかけられるような気がするのです。

    心中しようと思っている男女の片割れが、連れの女性と言う存在がありながら、通りすがりの人に自らの名を名乗ったのは、連れの女性も彼と時をほぼ同じくして、この世からいなくなる、訳で、
    ですから 彼の生が存在したことを示す名前と言うものも、彼女から発音される事はもはやない
    そういう意味で その女性の存在は、もはや彼の生を証明する術を持たなかったのではないかと、彼も彼女もその時点で既にこの生の世界に属していなかったからではないかと考えます。
    でも、彼は、どうしても、それがほのかなものであったとしても、彼がこの世に存在したと言う足跡を残したかったのかもしれませんね
    かも、と言うのは私はこの人の思いは、理解できないからです
    私は自分が生きたと言う証を、後に残すことに一切興味がありません
    むしろ 私が居なくなったら、みんな私に事など、あっさりさっぱり忘れてくれて、私の名前どころか、話さえもしてくれないでいいと思っています。できたら シュワーっと泡にように消えて逝けたらいいなあと思ってるくらいで、、笑 ひっそり誰にも分からないように居なくなって、誰も思い出してくれなければいいなあと思っています。

    それは、おそらく私の厭世観 故ではなく、私が私の人生を良くも悪くも燃焼しているからなのではないかと思います

    「 A man with a man」良いタイトルですね
    私は、暖かいお陽さまの光も好きですが、でも月や月の光の方が何倍も好きです。
    私だったら とりわけ 「 una donna sotto il sole」月下人 。
    月下美人の「美」を取ったバージョンって事で、、 笑

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      これまで通り、Takeoでいいですよ。

      Pobohは確かに2007年頃にはじめたSNS時代から、現在のTumblrまで使っている、わたしにとっては親しみ深いニックネームですが、ふたつ並べなくてもよいです(笑)

      わたしは恋愛の経験がないのですが、昔から女性から名前(=たけお)で呼ばれたいという願望がありました。わたしの中では、「あなた」とよばれるよりも、何故か「格上」に感じられるのです。まぁわたしは「たけお」と「さん」抜きで呼ばれるような資質は持ち合わせていませんでした(苦笑)

      「友なくして生きることは、証人なく死ぬことだ」という誰かの言葉がありました。わたしもまた、望むと望まざるとにかかわらず、死んでしまえば誰の記憶にもおそらくは残らないでしょう。
      けれども本当にしみじみと思い出してくれる人を持てる人って、実はごく限られた人ではないかと思います。
      ほとんどの人は、「ああ、そういえばいたなぁ」程度の存在でしかないのでしょう。

      なにか事情があって、共にこの世から去らなければならないとしても、真に愛する人とと一緒に生きる(居る)ことができ、その人と共に手を携えて、天国に行くことができるのは、幸福な人生のような気がします。



      確かに、今その時を燃焼しつつ生きることができれば、後のことは知ったことではないという気持ちはわたしにもわかります。残念ながらわたしにはJunkoさんや、この映画のような生を持つことができませんでしたが。

      ' a man with a moon' は以前の ' a man with a past ' をちょっと変えてみただけです。過去に生きるも、月に生きるも、この地上、そして現在と無縁という意味では似たようなものです。

      月下人はいいですね。男でも使えるし。「月下美人」はちょっとありきたりな気がします(笑)Barの屋号みたいでもあるし(苦笑)

      コメントをどうもありがとう^^


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  2. Ciao Pobohtakeoさん
    度々お邪魔します
    1件目のコメントを書いてから、違う思考がぽっこり湧き出ましたので、追記

    私は名前にそれほどこだわっていないと書きましたし、確かに符合のようなものと言ってしまえばそれまでなのですが、名前は例えば人間が外見上はただの肉体であったとしても、そこに思考や魂を内蔵するように、名前と言うものも何か目に見えない、でも確かに「何か大事なもの」を内に内蔵する不思議なものであるのかもしれないと思い返しました
    日本のある企業家が「生きる」と言う講義を私の大学で行なった時に、私は彼の通訳をしたのですが、その時のこの言葉を思い出しました。
    子供は、生まれた時には個としての認識がなく、名前で呼ばれるようになってその個が育っていく。と
    takeoさんの仰っている存在の最期の瞬間まで何者である。ためには 名前は、特に思考する人間にとっては多分それなりの、つまり符合以上の意味を持つのではないでしょうか

    そして しばしば名前がその人を、どんな言葉より如実に語る、
    Takeoさんは私にとって、日本人とか何歳とか、どこに住んでてとかそう言う括りはもはや私の中には存在せず、Takeoさんは紛れもなくただTakeoさんであり
    私は私の友人たちにとって、日本人とか女性とかそう言う括りではなく、ただ紛れもなくジュンコであると言う事
    そう考えると、名前は私たちの人生に常に共にいる、影法師みたいなものかもしれないと、つまり符合なんかじゃあなく、もっと私たちの生を一体になっているものではないかと言う気になります。

    あ、それで思い出しましたが、私がかつてかかっていたサイコテラピストの女性は、他のサイコテラピストの例に漏れず、彼女自身がまず彼女が背負っている重荷を卸した方がいいのじゃあないかと思うような人でしたが、(でも彼女が属する心理学の教派が優れているので、少なくとも私にとっては有益なセラピーでしたが)
    彼女は 彼女の性格を知っている人( 冷酷なくらい冷静で 感情を一切表に表さず、下手な男性よりも男勝り 「嫌な人」でもありました)には、思わず笑ってしまうような名前で、マリア マーガレットさんと言う名前で
    いやっと言うほど少女的でしょ 苦笑
    彼女は自分の名前を嫌悪しており、普通イタリアはちょっと親しくなると患者と医師と言う関係であってもファーストネームで呼びあうのですが、彼女が頑としてそれを許さず、、と言うか私たちもあまりに不似合いなので、そう呼ぶ気にならず、苗字で呼んでいました

    犬はともかく、猫は名前に反応しません
    なんとなく名前をつけていますが、私が彼らを呼ぶ時、もしくは彼らがトカゲを弄んでいるのを叱責する時、彼らが反応するのはその音と響きによって 少なからず私の気分、怒っているか、やさしくしようとしているか、誰に対して発しているかが伝わる そのせいであると思っています

    Takeo さんのブログのタイトルを間違ってインプットしてしまったことに気づきました
    A man with a moon ですよね
    失礼しました

    こちらは、月曜日が「労働者の日」でお休みなので、私たちも4連休
    ちょっとほっとします
    良い週末をお過ごしください



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    1. なるほど、名前がもつ精神的なものか。そういう風に考えたことはありませんでした。

      ただ、Junkoさんにとって、わたしという存在は、これらのブログに書かれたわたしの思考や感情であって、それがTakeoとして書かれていても、Pobohとして書かれていても、「その存在」に変化はないのではないでしょうか?

      ニックネームとなるとまた別で、それはいわば既成の、出来合いの戸籍上の名前に比べて、遥かに個人的な関係を示すものだと思います。

      わたしはこれまたニックネーム(あだ名)で呼ばれたことがなく、これもまた憧れのひとつでした。
      JunkoもTakeoも本人が選んだわけでも、お互いが選んだわけでもない。けれども、ニックネームはお互いの、仲間同士の「暗号」のようなもので、より深い関係性がそこに存在していると思うのです。

      セラピストのM.Mさんは、それほど乙女チックには感じませんよ(笑)
      アントワネットとかならまだしも。ロロブリジータはちょっとセクシー過ぎるかも^^

      ヨーロッパは夏やクリスマスーニューイヤーに豪勢にロング・バケイションがありますからね。GWなんてどこいっても人ごみばかりでしょう。
      田舎に行くにも行き返りがたいへんだし。

      Junkoさんもよい連休を!

      興味深いコメントをありがとう^^

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