2018年4月22日

生きる理由


政治的な信条はさておき、たまには、どこか異国の田舎町で、とくに目覚ましい出来事もなく淡々と生きている人の物語でも読んでみたい。

大学で哲学科に入学した頃から、わたしにとって第一義的な問題は、「どのように生きるか」ではなく「なぜ生きるのか?」であった。わたしはなぜ人間であるのか?なぜ今この時代、この国に「このようなわたし」として生を受けたのか?「どのように生きる?」という問題は」それらの問いに、ひとまず解答が与えられてから始まるものであった。

第一に、自ら望んで生まれてきたものはただの一人もいないということ。
第二に、ひとは生まれてくる国も、時代も、親も、容姿も、さまざまな属性も、能力も何一つ自分では選べないということ。
かように、望みもしないのに押し付けられた生である以上、それを放棄する権利は何人にも備わっている(いなければならない)。
わたしを産んだ親も、またその親も、どこまで遡っても、それは全く変わらない。
誰も望んで生まれてきた者はいない。
だとすれば、ほとんどの人間の存在理由は、生を擲つのが容易ではないという理由がもっとも多いはずだと考えられる。生を放棄する際に伴う苦痛さえなければ、世界中の8割以上の人間はとっくに死を、すなわち生まれてこなかった状態を選んでいるに違いない。

けれども、インターネット上で人々の意見を聞く限りでは、「生活が苦しいから」「仕事がきついから」などの理由から、「死にたい」と考えている人がほとんどのように見える。
逆に言えば、経済的に余裕があれば、或いは働かないでも喰っていけるのなら、死ぬ必要はないと考えているようだ。

「衣・食・住に困らなければ死ぬことはない」そこがわたしとの決定的な相違だ。
わたしは自分が生きている基盤、生きられる足場、存在し続ける理由というものを見つけることができない。そしてそれは決して「クウネルトコロニスムトコロ」の問題ではない。
言い方を換えれば、クウネルトコロニスムトコロ、すなわち「ゼニカネ」の問題さえなければ生きていられるという人と、わたしとは、まったく異質の他者であるということになる。

「なぜ?」を口にしたばかりに生涯憎まれて老いた男だった
ー 長田弘「孤独な散歩者の夢想」より(ジャン=ジャック・ルソーに寄せて)

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