白洲正子の随筆集『余韻を聞く』(2006年)のなかに、河合隼雄と話をしたときのことが書かれている。
白洲が、患者とどういう風に付き合うのか?と尋ねると昔は、自分が直してやる、という氣で一生けんめいでしたが、この頃わかったことがある。(先生は今年六十一才です)それは、放っといても、自然の空氣とか、樹とか、風とか、空とか、そういうものが直してくれるのであって、自分の力なんか一つも加わってはいない、ということに氣が付きました。
ただ、自分はそこにいなければいけない、いるということだけで、あとは空氣や風に任せとけばいいのだと。
今日、久しぶりに国分寺周辺を歩いてみた。風が強かったが、その分薄緑色に染まった木々が風に揺れる姿を見ることができた。
もう何年振りだろう?昔柿の木の畑が広がっていたところには建売住宅が建ち並んでいた。
多摩地域でも知られた旧跡であり、散策のコースでもあるので、緑はまだ多く、色とりどりの花が咲いていたけれど、わたしの心は晴れなかった。
この世になくて
くちおしいだろうもの、
武蔵野
キーツ 萬葉
わが子 わが妻
少年の日のおもひで
木 草 山
秋
菊の花 桃の花
朝顔の花
そして しずかな空
ー 八木重吉 「しづかなるひは」
風の中、武蔵野を歩きながら、わたしの屈託は消えることはない
いったいなにが「いない」のだろう?
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