2018年4月27日

ありがとうございました。

これがこのブログでの多分最後の投稿になると思います。

いまわたしは、いろいろな疑問に突き当たっています。

たとえば・・・

「人間」である条件とはなにか?

「なぜ言葉が必要なのか?」(この中には「なぜ読むのか?」「なぜ書くのか?」という問いも含まれます。)

「わたしを「わたし」たらしめているものは何か?」



先日「他人が存在するにもかかわらずわれわれは生きて行けるか?」という
トーマス・マンの言葉について考えていると書きました。

ひとつには、もし人がわたしと似ていたら、わたしの独自性はその分だけ損なわれるのではないか?という懼れ。

そして同時に、わたしが世界中の誰とも似ておらず、気持ちが通じ合うことができないとしたら、それは絶対的な孤絶であり、絶望ではないのか?という思い。



わたしの書いてきたもの、そしてこれからもどこかで書き続けるであろうことは、全てわたしという異形の者が、その全存在を懸けて発し続けた「必死の問いかけ」です。



日本では明日から大型連休が始まります。そしてこのブログは、この国以外の方の閲覧もあったようです。その方たちには、どうかよい週末をお送りくださいと申し上げます。


短い間でしたが、このような奇妙な文章にお付き合いくださった方々にお礼をいわせてください。

ド ウ モ ア リ ガ ト ウ ゴ ザ イ マ シ タ


Great regards

 Takeo









5 件のコメント:

  1. 「他人が存在するにもかかわらずわれわれは生きて行けるか?」

    人の生とは孤独を意味しているのではないでしょうか。
    母親の体内から産出された瞬間から孤独は始まったのでしょう。
    外気に触れてそれを感じて恐れをなして発する声、その産声にそれが表れています。
    川の流れが自然と大海に向かうように、人は母のもとに戻りたいのです。
    生命は、大いなる「こころ」に帰りたいのです。
    でも、ほとんどの人はその事に気づいていません。
    だから山崎弁栄(べんねい)上人は云うのです。
    人生は“帰趣”であると。

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  2. 最近、こちらのブログを発見し、拝見していましたのに、残念です。
    自分が世界中の誰とも似ておらず、気持ちが通じ合うことができない、
    と、私も同じようなことを、毎日感じておりますので、
    takeoさんの、いくら書いても・・・孤独感は・・・消えない。
    誰もが、同じようなことを感じているような気がします。
    私は、takeoさんのように、頭が良くないので、こんな素晴らしい文章は
    書けませんが、takeoさんの文章をこれからも読みたいです。
    どこかで、書き続けてください。
    私も、ひどく孤独なんですが、文章を書ける人には
    憧れを持っています。
    奇形な幻をご存知ですか?
    人って、正しいものより、奇形なものに惹かれるってこと。
    私は、人のそんな部分を書けたらいいな、と思っています。
    どこかで、また書かれるのなら、移転先を教えてくださいね。
    隠れたファンより

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    1. はじめまして。お返事が遅れました。

      自分が誰とも似ていない。それはひょっとして、そもそもわたしは人間ではないから。という至極単純な理由なのかもしれないと最近思い始めています。

      先に書いたように、「人間を人間たらしめているもの」それがなんだかわたしにはわかりません。

      別にクラゲでも蛙でも一向に構わないのですが、ともかくも自分が何なのかを知らなければ、世界の中での立ち位置ー生き場所を見出すことはできません。

      「仮に人間であるとしておきましょう」というのなら、最初に戻って、だったらもう少し人間らしいはず=誰かに似ているはず、ということになりませんか?

      少しづつ狂気の世界に足を踏み入れつつあるのでしょうか?
      そんなものにも関心があれば引き続きお読みください。

      わざわざコメントをどうもありがとうございました。


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  3. わたしをわたしたらしめているもの。

    宿命と運命。これをわたしは「わたしをわたしたらしめているもの」と受け止めています。
    「わたし」に付いて考えても答えは“無い”のでは無いでしょうか。思慮ある人は皆、考えてきた事でしょうが、誰一人答えを見出した人はいないようです。おそらく神仏に問うて見ても回答は得られないでしょう。
    そんな事を考えているうちに、いつの事だったかふと思ったのです。今のこの私、この宿命とこの運命を持った一個の生命、これが“私”なのだと。

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    1. なるほど、運命と宿命ですか。そうかもしれませんね。

      わたしをわたしたらしめている。これを言い換えれば、わたしを他と隔てているものということもできます。ところがわたしには、なかなか世の中で、「彼を彼たらしめている」「彼女を彼女たらしめている」というような「相違」が見えないのです。人は誰もがその固有の運命を持つものなのでしょうか?

      わたしには、「わたし」を「わたしたち」たらしめている社会の仕組みのようなものが感じられてならないのです。

      新しいブログにも来てくださいね。

      なんだかまとまりのない返事ですみません。

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