2018年4月27日

電車内での化粧は何故みっともないのか?


電車内での女性の化粧に眉を顰める人たちがいる。最近は年に数回、それもせいぜい20分程度しか乗る機会が無くなったので、そういう光景はごくまれに見かける程度だ。けれども、個人的には、女性の電車の車内での化粧姿に嫌悪感を感じたことはない。

以前雑誌で、肌が弱くて、口紅すら塗れないくらいなのに、あんなに惜しげもなく口紅やリップグロスを塗り、筆ペンの如きアイライナーをたっぷりと使うような化粧が羨ましくて、ついつい目が釘付けになってしまうという女性の記事があったけれど、わたしもまた、若い女性の盛大な化粧姿を見る機会というのはほとんどないので、「釘づけ」とまではいかなくても、ついつい目が離せなくなってしまう。

彼女たちの車中での変貌ぶりを苦々しく感じる人たちは、いったい何が不快なのだろうか?「化粧は公衆の面前で堂々とするものではない」ということなら、その根拠となっている意識はなんだろう。「恥の観念の欠如」であろうか。「いくら外見を美々しく粧っても、内面の美意識が欠けている」というのだろうか。

簡単にいえば、「恥」の観念というのは、「私的な空間で行われること」を「公の場で公然と行う」ことへの嫌悪感だろう。

わたしは電車に乗って、真向かいの座席で、或いは真横の席で、化粧を始められたとしても席を立つことはないが、隣でスマートフォンを取り出してチャラチャラといじくられると、それだけで不愉快になって席を移動してしまう。聞こえよがしに大きなため息をついたりして。無論彼らにはスマートフォンが嫌いな人間がいるということなど、想像もつかないだろうが・・・

仮に電車内での化粧が、私的な行為を大勢の面前で行う故に嫌われ、顰蹙せられているのなら、車内での、ホームでの、レストランでの、街中でのスマートフォンに関しては、「危険である」という点以外に、見てくれがよくないという声が皆無であるのは何故なのだろうか。

化粧も、スマートフォン(或いはその他モバイル、パソコン)の使用も、外界が瞬時に閉ざされた自室と等質になるという点で、その本質に於いては、なんら相違はない。

嘗ては電車やバスの中で、「大人がマンガ本を読んでいる」と冷笑された時代があった。
スマートフォンを操る人たちは、「俺は、わたしは、仕事のことで・・・」というのだろう。けれども、それが仕事のメールチェックだろうが、ゲームだろうが、SNSだろうが、傍から見れば同じことである。「公と私の壁の決壊」それが至る所に溢れている。

電車内での女性の化粧を揶揄するなら、そのナルシシズムに於いて、所謂「自撮り」なるものの滑稽さ、珍妙さは、化粧の比ではない。

「目は常に未開の状態で存在する」と、アンドレ・ブルトンは言ったという。これがどのような文脈の中で言われたものか知らないが、網膜に映ずるものを認識・理解すること、そしてその次にそれに対して独自の意味付けをすること、その時点で既に目は意識によって「開拓」された状態になっている。意味付けをすること=解釈をすることとは、主体の価値判断を伴う。

わたしにとってみっともなさとは、(ことの大小、善悪、美醜を問わず)人と違ったことをすることではなく、皆と同じ見てくれで、その挙措動作、行住坐臥に於いて、マス(みんな)に埋没していることを恬として恥じないことである・・・







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