2018年4月21日

リベラル嫌い

本書(『抵抗論・国家からの自由へ』)の上梓により、『永遠の不服従のために』にはじまる論考・エッセイ集は『いま抗暴のときに』をはさみ、3冊目となった。タイトルの”つよさ”からか、これらを”抵抗3部作”と呼ぶ向きももあるようだが、著者にはそうした大仰な意識はまったくない。
(略)
「不服従」「抵抗「抗暴」の字面は、いわれてみればたしかに穏やかでない。しかし穏当を著しく欠くのはむしろ世界の情勢のほうなのだというのが、私の言い分である。
「不服従」や「抵抗」といった、いささか古式でそれ自体の正当性をいいはるたぐいの言葉は、よくよく考えると私の好みでもない。アグレッシヴなこれらの言葉と人の内面の間には、しばしば到底埋めがたいほど深い溝があるからである。
それなのに敢えてこれらのタイトルを冠したわけは、決して私の衒いや気負いではなく、おそらく喫緊の状況がそうさせているのだ。と、申し上げておく。
世界は今、「不服従」「抗暴」「抵抗」を”テロ”という名辞で暴力的に一括して完全に消去しようという流れにあるように見える。わたしの考えでは、しかし、「不服従」や「抗暴」や「抵抗」がさほどまでに忌み嫌われているのとまったく同時に、これほど必要とされ、求められている時代もかつてないのである。
—  辺見庸 『抵抗論・国家からの自由へ』(2004年) あとがき

◇◇

既存の法律から刑罰を受けることを覚悟の上で、既存の法律体系を破壊するのが、軽率や野蛮の咎に当たる場合が少なくないのは確かだ。しかし、既存の法律を操る者たちが被支配の立場にいる者たちに対し、専横や抑圧に狂奔するなら、たとえばイラク侵略の如き「国家テロ」をアメリカが仕掛けるなら、それに「不法の武力行為」としてのテロで対抗する者たちが出てくるのは寧ろ自然の成り行きだ。

自由民主主義が自らをグローバリズムにまで仕立てて果てしなく堕落していくのにテロ(恐怖)を与えたいと夢想する、またその堕落を侵略にまで持っていく巨大な資本を有したキャピタリストに対しても、強大な武器を持ったミリタリストに対しても批判を与え、そして自爆を恐れずにテロ(不法の武力行使)で報復しようとしている人々に、場合によって強弱の差がいろいろあるが、ともかく応援する気持ちを隠したくない。その意味で、この老人確かにテロ支援者である。
ー 西部邁 「テロリストの味方と呼ばれるにつれ深まりゆくテロ(恐怖)への理解」-『ファシスタたらんとした者』(2017年)より

最近は愛読している辺見庸がなかなか新刊を出さない(出せない?)ので、代わりに、といっては変だが、西部邁の本をちょくちょく読んでいる。

テロリズムへの共感、日本及び日本人への絶望、自民党及び、リベラル各派への嫌悪、テクノロジーへの反発、等々、意外なほど辺見と通底する部分が多い。
わたしはともかく自殺の讃美者であり、大の受勲者(=権力に頭を下げ、媚びる者)嫌いという点で、これからも辺見庸、竹中労と共に読んでいく人になるだろう。

「この老人、たしかに(考え方の上で)過激でなかったことは、二十二歳になると同時に左翼に属することを辞めて以来、もっと正確には、三十三歳で連合赤軍事件をみてからずっと、一度もなかった」(同上)

という西部と、何かと「リベラル」左翼系から嫌われる「独立独航」の辺見庸。
そして「犬死にこそいいのだべし」と言い放った竹中労・・・
こういう人物たちがわたしは好きだ。





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