しばらくひとつのことを続けていると、直に自分の無能さ加減がたまらなくなってくる。
わたしは35歳の時に社会から完全に離脱したが、それまでの十数年間、何をやっても満足に勤められたためしがない。こちらへ報せることなしに勝手に自給を下げられたり、配置転換はあたりまえ、ほとんどすべての仕事の終わりは、決まって「ああ、キミ、もう明日から来なくていいよ」
とにかくなにをしても自分で満足できたことがないし、当然ながら仕事ぶりを褒められたこともなかった。仕事に限らずどのようなことであっても他人から認めてもらったという経験がない。
もっともわたしという人間のどうしようもない無能さは、わたし自身が誰よりもよく知っているので、突然の馘切りを理不尽と感じたことはないし、逆に褒められるとどうしてもムキになってしまう。
2006~7年ごろからSNSを始めた。ここでも何度か書いたように、基本的に「アート」をやり取りする場だった。
自分がいいと思った絵や写真を、「友達」に「送る(贈る)」のだが、
次第に「なんて自分の送る絵はこうもつまらないんだ!」と絶望的な気持ちに囚われる。そんな感情は周期的な波のようにわたしを飲み込み、「友達」が何を言おうと聴く耳を持たなかった。送られた側が満足しているのならそれでいいじゃないかと普通は考えるのかもしれないが、わたしはわたしが満足したもの(だけ)を送りたかった。
或る時、例によって、わたしが頭を抱えているのを心配したアメリカの女性が、いつものように「Takeoの送ってくれる絵はいつも繊細でうつくしい」というようなことを言ってくれた。「そんなはずがない」というわたしの静かな叫びに、相手は困惑して、「いったいあなたはこれ以上何を求めているの?」と尋ねてきた。「・・・わたしだけじゃない。わたしやあなたの周りのみんながあなたの送ってくれる絵の素晴らしさにいつも驚いている。なぜあなたはそうまで自分を卑下するの?」
わたしは答えられなかった、「その時いいと思って」送った絵が、しばらく経つと、いかにもみすぼらしく色褪せたものに見えてきてしまうのだ。そしてそのように感じる自分の目、自分の感受性は欺けない。
MySpaceがなくなって、Tumblrに移ってからも同じようなことは続いた、フォロワーが増えても、わたしは定期的に、「これまでわたしが投稿してきたものはみんなクズだ!」という気持ちに苦しめられた。そしていつもきまって言うことは、「ああ、一度でいいから本当に自分の満足のいく投稿がしたい・・・」
わたしの文章下手、文章に対する劣等感はMySpaceやTumblrで投稿してきた「ツマラナイ」絵や写真の比ではない。
わたしの文章は全くダメだ。
日頃は新聞の読者投稿欄に掲載されている文章を「毒にも薬にもならない」とか「凡庸」などと貶したりしているが、なにを思い上がっているのか?少なくとも彼らは書くことの「基本」を知っている。
わたしは時々自分の書いたものを読み返して、「こいつは一体何が言いたいんだ?」と呆れてしまう。「もうちょっとまともな文章が書けないのか?」と。
嘗て「君には書く仕事は向いていない」=ものを書く能力はないといった複数の出版社の上司、先輩たちは正しかった。勿論そのことは当時からわたし自身、彼らの書く物と、自分の文章を比べて、充分に思い知っていたのだが。
わたしがいい文章・・・(「いい文章」とはなにかという定義も曖昧で多様だが)
を書くことができないのは、工場の流れ作業ひとつ満足にできぬのとおなじように、人間としての根本的な欠陥に因るのだろうか?
わたしにとってのいい文章とは、何よりもまず自分が納得できる文章であること。人に褒められるよりも、わたしはわたし自身が、それなりに形になっていると思える文を仕上げたい。そしてそれは嘗ていちども出来たことのないことだが。
これも定期的に考えることだが、やはりどこか「文章教室」というようなところに通って、わたしの文章のどこが具体的に悪いのか?そして「どこをどうすれば」それが改善されるのかを「文章のプロ」から教えて欲しい。
マズい文章は理由があるからマズイはずだ。そしてプロというのは、コーチというのは、その欠点を矯正できる人たちの事ではないのか?
それとも、それは才能のない子供に、レンブラントの絵を描かせるのと同じくらいの不可能事なのだろうか・・・
といった太宰の言葉が真実で、こればっかりは最早持って生まれたセンスの有無に帰着するのだろうか・・・
なぜわたしはこうも無能なのか?
『アマデウス』で、アントニオ・サリエリが何故モーツァルトを殺さなければならなかったのか。わたしにはよくわかる。
才能のある人間が憎い・・・
わたしは35歳の時に社会から完全に離脱したが、それまでの十数年間、何をやっても満足に勤められたためしがない。こちらへ報せることなしに勝手に自給を下げられたり、配置転換はあたりまえ、ほとんどすべての仕事の終わりは、決まって「ああ、キミ、もう明日から来なくていいよ」
とにかくなにをしても自分で満足できたことがないし、当然ながら仕事ぶりを褒められたこともなかった。仕事に限らずどのようなことであっても他人から認めてもらったという経験がない。
もっともわたしという人間のどうしようもない無能さは、わたし自身が誰よりもよく知っているので、突然の馘切りを理不尽と感じたことはないし、逆に褒められるとどうしてもムキになってしまう。
2006~7年ごろからSNSを始めた。ここでも何度か書いたように、基本的に「アート」をやり取りする場だった。
自分がいいと思った絵や写真を、「友達」に「送る(贈る)」のだが、
次第に「なんて自分の送る絵はこうもつまらないんだ!」と絶望的な気持ちに囚われる。そんな感情は周期的な波のようにわたしを飲み込み、「友達」が何を言おうと聴く耳を持たなかった。送られた側が満足しているのならそれでいいじゃないかと普通は考えるのかもしれないが、わたしはわたしが満足したもの(だけ)を送りたかった。
或る時、例によって、わたしが頭を抱えているのを心配したアメリカの女性が、いつものように「Takeoの送ってくれる絵はいつも繊細でうつくしい」というようなことを言ってくれた。「そんなはずがない」というわたしの静かな叫びに、相手は困惑して、「いったいあなたはこれ以上何を求めているの?」と尋ねてきた。「・・・わたしだけじゃない。わたしやあなたの周りのみんながあなたの送ってくれる絵の素晴らしさにいつも驚いている。なぜあなたはそうまで自分を卑下するの?」
わたしは答えられなかった、「その時いいと思って」送った絵が、しばらく経つと、いかにもみすぼらしく色褪せたものに見えてきてしまうのだ。そしてそのように感じる自分の目、自分の感受性は欺けない。
MySpaceがなくなって、Tumblrに移ってからも同じようなことは続いた、フォロワーが増えても、わたしは定期的に、「これまでわたしが投稿してきたものはみんなクズだ!」という気持ちに苦しめられた。そしていつもきまって言うことは、「ああ、一度でいいから本当に自分の満足のいく投稿がしたい・・・」
わたしの文章下手、文章に対する劣等感はMySpaceやTumblrで投稿してきた「ツマラナイ」絵や写真の比ではない。
わたしの文章は全くダメだ。
日頃は新聞の読者投稿欄に掲載されている文章を「毒にも薬にもならない」とか「凡庸」などと貶したりしているが、なにを思い上がっているのか?少なくとも彼らは書くことの「基本」を知っている。
わたしは時々自分の書いたものを読み返して、「こいつは一体何が言いたいんだ?」と呆れてしまう。「もうちょっとまともな文章が書けないのか?」と。
嘗て「君には書く仕事は向いていない」=ものを書く能力はないといった複数の出版社の上司、先輩たちは正しかった。勿論そのことは当時からわたし自身、彼らの書く物と、自分の文章を比べて、充分に思い知っていたのだが。
わたしがいい文章・・・(「いい文章」とはなにかという定義も曖昧で多様だが)
を書くことができないのは、工場の流れ作業ひとつ満足にできぬのとおなじように、人間としての根本的な欠陥に因るのだろうか?
わたしにとってのいい文章とは、何よりもまず自分が納得できる文章であること。人に褒められるよりも、わたしはわたし自身が、それなりに形になっていると思える文を仕上げたい。そしてそれは嘗ていちども出来たことのないことだが。
これも定期的に考えることだが、やはりどこか「文章教室」というようなところに通って、わたしの文章のどこが具体的に悪いのか?そして「どこをどうすれば」それが改善されるのかを「文章のプロ」から教えて欲しい。
マズい文章は理由があるからマズイはずだ。そしてプロというのは、コーチというのは、その欠点を矯正できる人たちの事ではないのか?
それとも、それは才能のない子供に、レンブラントの絵を描かせるのと同じくらいの不可能事なのだろうか・・・
「文章に巧拙あり。容貌の如きものなり。致し方なし」
といった太宰の言葉が真実で、こればっかりは最早持って生まれたセンスの有無に帰着するのだろうか・・・
なぜわたしはこうも無能なのか?
『アマデウス』で、アントニオ・サリエリが何故モーツァルトを殺さなければならなかったのか。わたしにはよくわかる。
才能のある人間が憎い・・・
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